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評者◆粥川準二
新型コロナに最前線で立ち向かう救急医療の現場の声から、「生権力」の発動を感じ取る――「未来のある若者」と「高齢者や持病のある人」の間に、「多数派の人」と少数派の人との間に、「切れ目」が入れられ、前者が「生きさせ」られて、後者が「死に廃棄」され始めている
No.3575 ・ 2023年01月21日
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■年末年始も、新型コロナウイルス感染症について、公開データや報道をチェックし続けた。
東洋経済オンラインや日本経済新聞、厚生労働省などのデータサイトによれば、二〇二二年一二月二九日、新型コロナによる一日当たりの死者数が四二〇人に達し、過去最高を記録した。災害か事故が毎日起こっているような人数である。『朝日新聞』などいくつかの記事は、なぜかその人数を「四三八人」と伝えたが(市野塊、米田悠一郎「コロナ死者過去最多ペース 関連死も増加か インフルも流行期入り」、同紙、一二月二八日)、各種データサイトでは「四二〇」人と記録されている。 一方、一日当たりの感染者数(検査陽性者数)は、一二月二八日に二一万六二一九人に達したが、この数字は、いわゆる第七波のピーク(八月一九日、二六万一〇〇四人)よりも少ない。 つまり第八波のデータを第七波のデータと比較してみると、感染者数は比較的抑えられているが、死者数は抑えられていない。『朝日新聞』はそれをこう書く。「死者増加の原因について、専門家組織は「はっきりしない」とするが、自治体が把握できていない感染者が相当数いたり、医療逼迫(ひっぱく)の影響を受けていたりする可能性が指摘されている」(前出)。 一方、オミクロン株対応のワクチン接種が伸び悩んでいることも伝えられている。「内閣官房の集計では、12月27日までにオミクロン株対応ワクチンの接種を受けた人は全国で4412万人で、接種率は35・0%にとどまっている。2回目までの接種率80・4%、3回目の67・7%を大きく下回っている。65歳以上の高齢者でも58・9%にとどまる」(無署名「オミクロン対応ワクチンの接種率、35%と伸び悩み…65歳以上でも58・9%」、読売新聞、二〇二三年一月一日)。 感染症には、自分を守ることが結果として他者を、そして社会を守ることにつながる、という特徴がある。マスクもワクチンも自分を守ると同時に他者を、社会を守るものである。これらに積極的ではない人たちが一定数いるということは、いったい何を意味するのであろうか。 なお本稿を執筆している二〇二三年一月二日現在、感染者数も死者数も下がり始めている。年末年始にかけて人の移動が多い時期が続いたので、これからまた増えてもおかしくないが、筆者には予測不可能である。 千葉県の救急医療の現場で活動する国際医療福祉大学救急医学主任教授の志賀隆は、いわゆる医療逼迫の状況を「たくさん受け入れを断っています」と語る。その一方で、政府を含む社会の判断を、このようにまとめる。 「もうコロナも3年目なので、端的に言えば「高齢者や持病のある人よりも、未来のある若者を重視しないといけないのではないか?」というメッセージが世界中で発せられているのではないかと思います。W杯開催でのノーマスクの状態もそういうメッセージだと受け止めました」(岩永直子「「救える命も救えなくなる」 行動制限のない冬に崩壊しつつある救急現場の悲鳴」、BuzzFeed、一二月二三日) 藤田医科大病院の副院長で、救急総合内科教授の岩田充永も第八波の状況を解説しながら、こう述べる。 「結局、多数派の人が恩恵を被るように舵を切っているのが現状です」(岩永直子「「ワクチンうっても感染はします」コロナ第8波の最前線に立つ医師が、それでも接種を薦める理由」、BuzzFeed、一二月二八日) 志賀と岩田が救急医療の現場から伝える声を聞いて、「生権力」がこれまで以上に姿を見せ始めたことを、われわれは確認せざるを得ない。 「生権力」とは、フランスの思想家ミシェル・フーコーが提示した概念で、「死」をもたらすことによって行使される「死権力」に対して、「生」をもたらすことによって行使される権力形態のことである(フーコーは「死権力」という言葉を使っていないのだが、筆者を含む数人の論者は便宜的にこの言葉を使うことがある)。この生権力は近代以降、あらゆる側面で台頭してきた。 フーコーは生権力の特徴を「生きさせるか死の中へ廃棄するという権力」と表現する(渡辺守章訳『生の歴史Ⅰ 知への意志』、新潮社、一九八六年)。また彼は、同じ時期の講義で、生権力は「生きるべき者」と「死ぬべき者」との間に「切れ目」を入れる、と説明する(石田英敬ほか訳『社会は防衛しなければならない』、筑摩書房、二〇〇七年)。 注意したいことがある。もし、「生権力を行使する」と能動態で述べるならば、その主語はいったい何か、あるいは誰か、ということだ。死権力であれば、それはいわゆる権力者であろう。生権力では、筆者の理解では、その行使の主語は「社会」である。「われわれ」といってもいいかもしれない。政治家や官僚など権力者が生権力を行使しているように見えても、それはわれわれの意志の反映ではなかろうか。少なくとも筆者はそう理解している。 そしてコロナ禍三年目の現在、志賀の言葉を借りれば、「未来のある若者」と「高齢者や持病のある人」の間に、岩田の言葉を借りれば、「多数派の人」と少数派の人との間に、「切れ目」が入れられ、前者が「生きさせ」られて、後者が「死に廃棄」され始めている、と理解せざるを得ない。 「切れ目」を入れているのは……おそらくわれわれ自身だ。 (叡啓大学准教授・社会学・生命倫理) |
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