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評者◆関大聡
「書く」は他動詞か?――バルト以降の文学理論の行方(前篇)
No.3539 ・ 2022年04月16日




■文学研究の世界で、ロラン・バルトの名はいまも燦然と輝いている。その彼が六〇年代、時代の寵児として最初に認められたのは、構造主義の手法を文学言説や文化の分析に適用した手際の見事さによってだった。構造主義は、言語学、精神分析、マルクス主義を理論的支柱に、主体が構造(言語、無意識、下部構造)の効果、産物に他ならないことを解明する。よく言われたように、主体は「脱中心化」されたわけだ。これを文学分析に適用するなら、作品の主体としての「作者」には死が宣告され、言説の構造自体が分析対象になる。
 この「理論」の限界が指摘され始めたのは、八〇年代頃からである。以前書いたことの繰り返しになるが、バルトの弟子アントワーヌ・コンパニョンは、『文芸の第三共和国』(一九八三年、邦題『文学史の誕生』)において、理論がその登場において厄介払いしたはずの歴史(文学史)を批評の世界に再導入した。さらに『理論の魔』(一九九八年、邦題『文学をめぐる理論と常識』)は、理論が制度化・惰性化した現状を指摘し、決算を試みたのだった。
 それ以来、フランスの文学研究は、全体として伝統的な文学史的アプローチに回帰したように思える。もちろん、新たな視座や展望は見られる。コンパニョンの「アンチモダン」やウィリアム・マルクスの「後衛」概念などは、歴史の流れ(と我々の神経)を逆撫でするような作家に注目することを可能にした。文学史に向かう眼差しは豊かになったはずだ。
 だが時として、歴史の重さに押し潰されそうになりはしないか。「生に対する歴史の利害について」を書いたニーチェのように、私たちが歴史を必要とするのは現在の行動のため、生きるためだと考えるなら、文学史が書かれるのは、いま読み、書く人のためであるほかない。では、現在書いている作家たちは、二〇世紀までの文学の遺産、その「壮麗なる廃墟」にどう向き合っているのか。また文学研究は、彼らの作品をどう認識しているのか。

 ドミニク・ヴィアール(一九五八‐)が『現在形のフランス文学』(二〇〇五、増補二〇〇八)によって人口に膾炙させた語に、「他動詞の文学」がある。これはバルトの「自動詞の文学」を反転させたものだとされる。まずバルトの見解を確認しよう。
 『批評をめぐる試み』所収の「作家と著述家」(一九六〇)において、バルトは作家と著述家を区別した。両者の違いは、「書く」という動詞の使い方の相違に求められる。著述家が書くのは、「何かを書く」という目的、たとえば証言・説明・教育のためであり、書く行為は目的実現のための手段になる。つまり彼らは、「書く」という動詞を、他動詞(目的語をもつ動詞)として用いるわけだ。これに対して作家は、書くこと自体を目的とし、動詞の「書く」は目的語をもたない絶対性を帯びる。バルトはこのような自動詞としての「書く」行為を、現代文学の特徴として提示する。
 とはいえ、今日このテクストを読み返すと、バルトの慎重さに気づかされる。彼は作家と著述家の類型化を試みつつも、「私たちは何かを書くことを望み、と同時に、端的に書く」という折衷的な現実を確認していた。おそらく、バルトが書くことの絶対的自動詞性を信じたことなどあるまい。むしろ彼が強調するのは、一見すると世界に背を向け、書く行為に没頭する作家が、「逆説」や「奇跡」を通じて、世界にすぐれた問いを差し向ける可能性である。その意味で、書く行為は、世界とのかかわりを完全に喪失するものではない。この傾向は講演「「書く」は自動詞か?」(一九六六)でさらに明確になる。表題の問いに、バルトは否定寄りの仕方で答える。六年前の所論は方向修正され、書く行為の近代性は、自動詞よりも中動態から理解されるべきだと論じ直されるのだ。詳述はしないが、バルトは中動態には他動詞性が排除されないと述べる。これは書く行為の他動詞的性格への配慮と見なせよう。
 以上、バルトの見解をやや詳しく掘り下げた。とはいえ、「「書く」は自動詞か?」というバルトの問いかけは、疑問符を取り去られて独り歩きし、「書く」の自動詞性、無私性、自己目的性の擁護と受け止められた。実際、現代文学(ヌーヴォー・ロマン、テル・ケル)の言語実験は、書くことの自動詞性をユートピア的に追求したと言って大過あるまい。そこでは「物語」が捨象され、言語のざわめきが抑制しがたく繁茂する。いわゆる「フランス現代文学」と言って私たちがイメージするのは、文学のこうした難解で秘教的な実践だろう。

 しかし、八〇年代以降、こうした傾向とは異なる文学が純文学の世界で目立つようになる。自伝的な「私」を用いた作品がヒットし、デュラス、サロート、ロブ=グリエのような大御所前衛作家もその実践に乗り出しただけでなく、より物語性を押し出した作品が増加した。これは「主体の回帰」や「物語の回帰」と呼ばれたが、ドミニク・ヴィアールはそれが単なる伝統への回帰とは異なることを強調し、「他動詞の文学」と命名した。引用しよう。
 「現代文学は、近年の批評を無視するわけではないにせよ、エクリチュールに、それまで失われていた対象=目的語(objets)を与え返した。そのため私たちはそれを「他動詞の文学」と呼ぶことを提唱する。文法において、目的補語をもつ動詞がそう呼ばれるように。」
 ヴィアールが新しい傾向の代表として名を挙げるのは、パスカル・キニャール、フランソワ・ボン、ジャン・エシュノス、ピエール・ミション、アニー・エルノー、ジェラール・マセなど、多くは戦後生まれの作家たちだった。彼らは主体(自己)、歴史、世界を文学の前景に取り戻す。自伝や日記形式が復権され、「家族関係の物語」や「オートフィクション」のような新ジャンルに近いものが発明されただけでなく、戦争や強制収容のトラウマをいかに語るかが大文字の「歴史」の問いとして出現し、また現実や日常生活の記述、果ては社会参加(アンガジュマン)の新しい形式までが模索される。
 では、他動詞として「書く」を用いる彼らは、バルトの言う「著述家」なのだろうか。そうではない、というのがヴィアールの見立てであり賭けである。彼らは「主体」を取り戻し「物語」を語ることに淫しているわけではない。ナタリー・サロートは戦後を「懐疑の時代」と呼んだが、八〇年代の作家たちは、その懐疑の正当な相続者であり、主体や物語を「執拗な問い、未解決の問題、喫緊の課題」として扱う。形式への配慮や批判精神は失われておらず、彼らはその点で「作家」である。あるいは、バルト自身が自ら作り上げた二分法の前でためらいを見せていたように、「作家」と「著述家」の間で実験する新たな書き手なのだ。

 ヴィアール以降、現代文学の「他動詞性」パラダイムは広く認められたと思われる。その定義を一歩先に進め、具体的内実を与えようとした研究者として、アレクサンドル・ジェファン(一九七〇‐)の名を挙げてみたい。
 彼の著書『世界を修復する』(二〇一七)は、おそらく現代フランス文学を理解する上で最重要の一冊である。著者によれば、八〇年代以降の現代文学の特徴は「治癒」の観点から理解できる。個人の記憶や集団のトラウマを治療し、癒す力が文学には求められるのだ。「自己」「生活」「トラウマ」「病」「他人」「世界」「時間」――さらに言うなら、「アイデンティティ」「セラピー」「関係」「記憶」など――現代文学は、こうした主題をほとんど強迫的に扱いながら、そこに生じた綻びや傷に寄り添い、できるならそれを癒そうと試みる。ジェファンは「フィクションと情動」をテーマに研究を展開してきた論者だが、ここでもキーワードになるのは「共感」「ケア」「レジリエンス」などである。
 同書で扱われる作家は八〇年代以前も含めると二〇〇人を超える。ヴィアールが挙げた作家たちは言うまでもなく、さらにひと世代若い、クロエ・ドゥローム、デルフィーヌ・ドゥ・ヴィガン、フィリップ・フォレスト、エマニュエル・カレール、メイリス・ドゥ・ケランガル、カミーユ・ロランスなど、ほぼ六〇年代以降に生を享けた作家が紹介される。とくにケランガルの二〇一四年のベストセラー作品『生者を修復する』(映画『あさがくるまえに』の原作)は、本書に深い着想を与えている。
 個々の作家たちの関心の違いを超えたところに著者が見出す共通項は、文学における「美的‐倫理的転回」である。作家が「文学の力」としてケア的なあり方を認めるだけでなく、読者も癒しを求めて書物を手にとる経験は珍しくあるまい。文学研究の世界では、ポストコロニアル研究やトラウマ研究がその先鞭をつけたが、さらにさまざまな学際的関心の合流が見られる。ジェファン自身がそうであるところのフィクション論者は言うに及ばず、『作家の知』(二〇〇八)の著者ジャック・ブーヴレスのような分析哲学者や、『詩的正義』(一九九五)などで文学的想像力の公的役割を論じてきたマーサ・ヌスバウムのような道徳哲学者など、物語の想像力に積極的意義を見出す議論がそれだ。アントワーヌ・コンパニョンも、二〇〇六年のコレージュ・ド・フランス就任講演『文学、何をするための?』で「文学の倫理的回帰」を指摘し、今日の読書は共感と情動を中心原理に据えていると論じていた。日本でも、小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(二〇二一)をこの文脈に置くことができるだろう。
 とはいえ、著者がこうした潮流に一定の距離を置いて議論していることは強調に値する。彼は「ケアの文学」に関心と同時に当惑を抱き、それでも「現代的感性の地図作成」を目指したという。では、そのような当惑は何に由来しているのだろうか。そして、それでも彼が関心を抱くのは、どのような動機に動かされてなのか。この点は、稿を改めて論じたいと思う。
(フランス文学・思想)







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