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評者◆凪一木
その138 チクショウ、ついに陽性となった。
No.3539 ・ 2022年04月16日




■新型コロナ陽性である。はっきりいって気が滅入る。現場では、私が最初(で最後かもしれぬ)の患者であるから、上っ面は優しい言葉でも、中身は戦犯扱いである。
 物書きで言うと、技術で書く人間はこんなときいくらでも書けるだろうが、私のように体験的、生理的、感情で書く人間は、ダメージを回復してからでなければ筆が立たない。ガンに罹ったときもそうであったが、疎外者の気分を味わう。「会社員」たちは、一方で腫れ物にでも触るような態度を示しながら、もう一方では、厄介者扱いである。
 病気は、上り坂の人生の段階では障害だが、もう下り坂の閉じる時期におけるそれは、アクセサリーのようなもので、ちょっとした個性であり風情だ。たとえ死に至る道筋が付いていても、それも含めて、大して障害でもなければ、恐怖でも不慮の事故ですらない。人生の最終復路を、少しだけ遅らせるか、中腹で少々立ち止まる程度のことだ。
 そもそもが六〇歳代、七〇歳代の老体に鞭打って立哨(建物の玄関などで不審者の有無などを立ったまま監視する業務)し、二四時間勤務どころか三六時間勤務での睡眠時間一五〇分という過酷さで、免疫力も低下した警備員など、衰弱した身体にウイルスも入りやすいだろう。罹ってくださいと言わんばかりの状態である。私はおそらく、その警備からコロナを移された。
 ピラミッドの上の者ほど高給をもらって休みが多く、楽な勤務体制で、危険も少ない。下で身を粉にして働く者ほど、安月給で、3K職場で、結局死の危険と、検査費用の自己負担の恐怖に晒されて生きている。この仕組みを身に沁みて確認できるのが、その上下を目の辺りに把握できる立ち位置のビル管である。病に罹りやすく、補償が認められにくく、泣き寝入りし、さらなる負のループをさ迷う生活を「確認しながら」右肩下がりで死ぬまで続く。
 自分の死を考えてみる。生きている今、普段、会いたくもない奴がいて、仕事上、制度上、行き掛かり上、仕方なく会って退屈な時間を過ごす相手は、誰にでもいるだろう。そういう相手に限って、自分が必要とされ面白がられ、大事に思われているなどと錯覚し、誤解し、本気で思い込んでいる。深い仲だと思っている。私が死ぬと、おそらくそいつは、(それこそがウソっぽいのだが)本気で泣いて、あまりにも的外れな私の「実像」を語るだろう。著名人の死ならば、なおさら、もっと多くの知りもしない「知り合い」が溢れ出てきて、さまざまな毀誉褒貶を述べるだろう。近い人間だからといってよく分かっているわけでもなければ、知ってさえいない。もちろん何の理解も洞察力も推理力もない。
 自殺であれ、自然死であれ、この不在に対する言葉の数々は、生きる者たちが、生きるための、粗食なのか、それとも贅沢なのか。自殺しようとするくらい思い悩んだ者なら、人から「分かる」などと言ってほしくない。分かるわけがないからだ。会社は「分かろう」とするが、分かってほしくないのである。多くの会社員は、会社に行かないことが孤独で不安である。会社に必要とされないならば、いったい自分は誰に求められて生きているのかという問いに答えられる生き方をしていないからだ。常に自問自答する生活をしていない。私はそういった人間とは違う。いくらでも家にいられる。会社になど行かなくて良いものなら、行かない。平気だ。
 意味を求めたがる。解釈をしたがる。理由を知りたがる。それが会社であり、会社員である。意味よりも大事なことが、「休む」というこの分からなさの中に、ここにある。この人間として、ここにいる。そういうことを言いたくなってくる。死ぬことぐらいは自分で死にたい。人為的に殺されるような感覚の中では死にたくない。自分の人生を自分で選んで生きるという感覚を、脅かされたくない。侵害されたくない。リアルに生きれば生きるほど、社会的な下らない役割を演じさせられる。そこから外れないと、お金を払わされ、時間を奪われ、人生の道筋を決定されていく。本当にやりたかったことはこれなのか。本当に生きたかった人生はこれなのか。分からぬまま、考える時間も余裕もないまま、生きた屍のように化けさせられるのではないか。何がコロナだ、馬鹿野郎。
 実は私は、もう完全に、この現場を追い出される状態なのである。
 同じ現場に長くいると、遅れているような、置いていかれているような気になる。それが何に対しての遅れや置いてけぼりなのか。時代や流行ではもちろんない。
 観光バスのガイドさんが運転手の隣に、ほんの少し腰掛ける程度の棒がある。彼女たち(昭和の観光バスブームの頃は女性しかいなかった)は、その場所を自ら「止まり木」と呼んでいた。その響きを耳にしたとき、当時の自分を思った。
 私はレンタルビデオ屋の店長をしていた。カウンターで、毎日、毎日、ほぼお馴染みの地域の客を相手に、ひたすら通り過ぎていく人々を見ている。しばらく見なくなったと思った爺さんは、別の常連さんから、亡くなったと知らされる。或る者は引越し、或る者は、他の店に浮気し、いやもう帰ってこない。また或る者は、ビデオから卒業し、ビデオに代わる人間の恋人に夢中だ。
 そうして人々を、カウンターの内から、立って見ている。自分のこの場所もまた「止まり木」だと思ったのだ。このとき、なぜか、地域のホッとするステーション、困ったときの相談場所、映画を通しての寄り合い所の役割も果たしていると思った。とはいえ、しばらくぶりに帰省客のような懐かしい客がやってきて、「まだ、こんなところにいるの」とか、「まだ映画なんて見てるの」みたいな会話が相手から、ついつい出てきたとき、取り残されているような気もした。「止まり木」に。
 カルメン・マキの『六月の詩』は、こんな歌詞だ。
 ♪笑いながら通り過ぎていった生温い風。去年の夏のままに私はしゃがみこんでいる。あの夏は続いている。
 男たちが私の身体の上を通り過ぎていく。といった印象で私は聴いた。人々が足早に通り過ぎていくビデオ屋のカウンター。街の片隅の定点で、映画の流行り廃りもそうだが、人々の、時代の、移動の、心の移り変わりを、ずっと黙って見つめている感覚。道端の傘地蔵のようだ。あまり同じ現場に長くいると、この恐怖が蘇ってくる。こんな場所で年を取っていっていいのか。
 いや、その前に、この「何の症状もない」コロナ陽性を「会社ごっこ的に」どうにかしなければならない。
 どこか下らない、この止まり木。(建築物管理)







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