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評者◆粥川準二
あなたは幸運か? 鈍感か?――チェルノブイリ事故からコロナ禍を貫く“むき出しの資本主義という社会的津波”
No.3496 ・ 2021年05月22日




■今年の四月二六日で、チェルノブイリ原子力発電所事故が起きてから三五年が経った。筆者は以前、人類学者のアドリアナ・ペトリーナが事故後のウクライナでフィールドワークを重ねて書いた『曝された生』(人文書院、二〇一六年)の邦訳版を監修した。その訳者の一人、森本麻衣子が事故後三〇年の時期に同書を踏まえて書いた論考「チェルノブイリ事故の「その後」から、いま私たちが学ぶべきこと」を、われわれは幸いにも、今でも読むことができる(現代ビジネス、二〇一六年四月一日)。
 森本は、同書で「描かれているのは、めまいがするほどの混乱、そして、そのなかを医療記録片手に、自ら学びとった生物学・医学の知識をよりどころに泳いでいこうとする被災者の姿」であると説明する。「チェルノブイリ原発事故は、ソヴィエト連邦の崩壊プロセスを加速させた出来事でもあった」。
 同書では、同国の「市場経済への苛烈な移行が市民生活を翻弄する」様子がリアルに描写されている。そのなかでも森本が着目するのは、「チェルノブイリ関連の社会保障の枠に入れれば、貴重な現金収入を得ることができる」ことに気づいた被災者たちだ。彼らは「生物としての己の身体に刻印された放射線の傷跡を証明する戦い」に身を投じてきた。
 森本は彼らの二面性を指摘する。彼らのなかに「災害にただ翻弄されるのでなく、限られた資源――被曝の事実とそれを証明する数値を含む――を最大限に使って生き続けようとするたくましさ」を見ることもできる。しかし、彼らが「頼りになる稼ぎ手としての父親、優しく何事にも動じない母親、勤勉な労働者といった、彼ら自身長らく大事にして生きてきた社会的役割」を「放射線とむき出しの資本主義とによって剥ぎとられ」、「自らを生物学的単位にまで還元しなければ生きていけない」という姿を、森本は「見るに忍びなかった」と書く(傍点粥川)。筆者も監修しながら森本と同じ感想を抱いた。
 森本は、筆者がいま住んでいる広島の出身で、チェルノブイリ事故から三〇年、福島第一原子力発電所事故から五年というタイミングでこの論考を書いた。
 その筆致はまるで予言のようだ。「むき出しの資本主義の津波が公的セーフティーネットを根こそぎ押し流すプロセス、それが日本でもポスト社会主義諸国と同じかたちで起きるとは思わない。チェルノブイリと福島の事故が、それぞれ異なる原因を持ち、異なる処理の経緯を辿る、異なる事象であるように。/だが、異なるかたちの「それ」、もうひとつの社会的津波の予感は、すでに私たちの足元をひたひたと濡らしつつあるのではないか?」(傍点粥川)
 森本の予感は当たってしまったようだ。
 世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルス感染症(COVID‐19)の拡大を「パンデミック(世界的大流行)」であると宣言したのは、二〇二〇年の、偶然にも三月一一日であった。
 新型コロナ感染症にかかると、高血圧や糖尿病などの「基礎疾患」を抱えている人は、抱えていない人よりも重症化しやすく、死亡しやすい。一方、貧困層は富裕層よりも基礎疾患にかかりやすいことがすでに知られている。つまり同じウイルスに感染しても、貧困層は富裕層よりも、重症化しやすく、死亡しやすいのだ。彼らが持つカネの量の違いが「格差」と呼ばれる。そうした貧困や格差という社会問題は、パンデミック以前から存在していたということがここでは重要だ(詳しくは、拙稿「COVID‐19時代のリスク その不平等な分配について」、現代思想、二〇二〇年五月号)。
 サイエンスライターのエイミー・マックスマンは『ネイチャー・ニュース』への寄稿で、ある研究によって、カリフォルニア州の食品・農業従事者の死亡リスクが、昨年には、同州の一般的人口よりも約四〇パーセント高かったことを紹介した。しかもラテンアメリカ系の労働者は、白人よりも死亡率が高かった。その背景には、差別や低賃金、安全対策の乏しさ、医療や住居、教育の不足などがある、という。
 しかし、マックスマンの記事に登場するラテンアメリカ系の医学生は「労働者はCOVIDのリスクが高いという論文を発表しても、問題の解決にはなりません」と苛立つ。彼の母親は養鶏会社で働いており、新型コロナに感染してしまった。「そのようなことが起こらないようにしたいと思いませんか?」(「不平等がもたらす致命的な犠牲(Inequality's deadly toll)」、ネイチャー(Nature)、四月二八日)。
 こうした問題は、格差が激しいアメリカなどの話で、比較的平等な日本には当てはまらないのだろうか? 筆者はそう言い切ることができない。
 各報道機関によると、個人が保有する現金や預金、金融資産は、このコロナ禍においても増えている。一方、有効求人倍率は下がっており、完全失業率は上がっている。ロイターのシニアエディター田巻一彦は、危機感をこうまとめる。「新型コロナウイルス感染が拡大する中で、富裕層を中心にした預金が急増し、コロナの感染収束時における消費の急拡大を予想する声が市場の一部にある。他方、非正規雇用の人たちを中心に所得環境は厳しさを増しており、日本国内でも第2次世界大戦後に経験したことのない富裕・貧困の二極化に直面している」(「富裕と貧困、コロナ禍で進む「日本の二極化」とその後」、ロイター、二月一二日)。
 たしかに日本は、超格差社会アメリカではないし、貧しいポスト社会主義国家でもない。しかし新型コロナのパンデミックによって見え始めているのは、むき出しの資本主義という社会的津波が、われわれの足元をひたひたと濡らしつつあることではないか?
 私事になるが、筆者は二〇一九年四月までの二〇数年間、フリーランスで働いてきた。その間、不運が重なって収入が途絶えてしまったことが何度かある。そのタイミングでコロナ禍に巻き込まれたらどうなっていたか、想像すると寒気がする。社会的津波に気づかずにいられる者は、幸運か、鈍感なだけだ。
(叡啓大学准教授・社会学・生命倫理)







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