書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります
評者◆睡蓮みどり
久しぶりに映画に酔いしれた――メイ・エル・トーキー監督『罪と女王』
No.3450 ・ 2020年06月06日




■窮地に陥ったときに、人はどのような行動をとるのか。追い詰められたときほど人は本性をあらわすとはよく言われることだが、実際にその通りだと感じることがいままでの拙い人生のなかでも何度かあった。たいていの人は、いいときはいいことしか言わない。嘘をつくのがよくないことだという良識があっても、自分がいざ困った状況に陥れば、平然と嘘をつくこともある。そしてだんだんと麻痺していき、やがて嘘が嘘だとも思わなくなる。その場はそれでなんとか繕って自分は助かるかもしれない。その瞬間だけは――。
 すごい映画を観てしまった。デンマーク出身のメイ・エル・トーキー監督の『罪と女王』だ。児童保護を専門とする有能な弁護士アンネ(トリーヌ・ディルホム)は、双子の可愛い娘たちと、医師の夫ペーター(マグヌス・クレッペル)と、ハイセンスな家具が配置された、誰もが羨むような家で暮らしている。夫の前妻との間にできた17歳のグスタフ(グスタフ・リン)は学校でトラブルを起こし、アンネの家に一緒に住むことになる。年頃のグスタフは最初なかなか家族にも馴染めずにいる。ある日グスタフは家のものを盗んでしまう。アン
ネはそのことに気づいて本人に言うが、一家と馴染む努力をするなら、と父に告げ口することもなく見逃す。やがて、義理の息子とも距離感が縮まってゆき、アンネとグスタフは関係を持ってしまう。罪悪感から父であるペーターにそのことを話してしまったとき、アンネはそれまでの生活を守るべくグスタフに酷い仕打ちをするのである。
 一体どんな結末を迎えるのだろうかとハラハラしながら釘付けになっていた。とてもシンプルな時間軸とストーリーでありながら、それぞれの登場人物たちの複雑かつ巧妙に絡み合った感情が深く興味をそそってくるのだ。本作でもデンマーク・アカデミー賞をはじめ、数々の賞を受賞した主演のトリーヌ・ディルホムが何と言っても素晴らしい。有能な弁護士としての顔、母親としての顔、妻としての顔、そしてグスタフに魅了されていくちょっとした変化や動物的な欲望を発する瞬間まで見事に演じている。思わず彼にキスしてしまう一瞬の恍惚や、抑え込むことのできなかった生々しい欲情、懐かれてゆく面倒くささ、バラされるのではと怯える視線の危うさなど、どこを切り取っても完璧なのだ。
 いわゆる男女の性的な関係において、女性が被害者側に立たされることは多い。特に、#Me Too運動で、私たちはそのようなことが間違っていると声をあげていいのだということを学んだ。監督もインタビューのなかで、「#Me Tooが生みだした新しい認識に満足」していると同時に、「間違いなく見落としているものもある」と語る。その言葉は非常に腑に落ちるものだった。正直に言って、いまでもまだこのようなタブーを描くことはかなり勇気のいることだ。下手をしたら「女の敵だ」とみなされかねない。フェミニズムは決して女性のためだけの思想ではないはずなのだけれど。どの運動もそうだが、大きくなればなるほど、そのなかにあるちょっとした矛盾や例外はなかったことにされる可能性がある。アンネは女性であり、権力者=女王だ。決して弱者ではない。ではグスタフとの関係は加害者と被害者だと言い切れるのか?
 17歳というまさに大人でも子どもでもない年齢や、グスタフが男性で(ガールフレンドもいる)、義理の息子だということ。夫の実の息子とはいえ、アンネとは会ったばかりも同然で、おまけにアンネは知性もあり魅力的だ。少なくとも彼女は“ミザリーで”はない。ウッディ・アレンみたいな家族のあり方も実際に存在しているし、一概に何が良いとか何が悪いとか他人が決めつけてしまうことは難しいのだが、往々にして過ちというのは多くの場合、後から大きくのしかかってくるものだ。時間差があっても何も不思議なことはない。ただ、アンネもこれは他の人には絶対に話してはならない秘めごとだと考え、ようやく家族として過ごす喜びを得たグスタフにとって、アンネとの関係は父親への裏切りとして深くのしかかる。彼は決して、アンネを破滅させるために利用したわけではなかっただろう。むしろ判断をきちんとできる状態で、アンネの情欲に飲み込まれてしまったのだ。
 ちなみに私の大嫌いな言葉の一つは「保身」だ。保身に走る人間は格好悪くて醜い。すべての罪をグスタフに押し付けて、築き上げた暮らしを守ろうとするアンネの醜さをここまで真正面から描いているのは本当に素晴らしい。結果的に、グスタフはアンネを永遠に安心とは程遠いところに連れていってしまう。道連れだ。表面的な勝利は、彼女を今後ますます醜くしてしまうだろう。アンネをはじめとした登場人物それぞれの複雑性こそがこの映画の成功であり、確実に#Me Tooから、さらに新しいステージでの映画が誕生した。毒がゆっくりと全身の血管を流れていくように、もはや他人事ではなくなった苦しみや罪悪感と戯れ、このアンネを覆う負の感情を噛み締めていたい。久しぶりに映画に酔いしれた。
(女優・文筆家)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。
(坪内祐三)
2位 女帝小池百合子
(石井妙子)
3位 ワイルドサイドをほっつき歩け
(ブレイディみかこ)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 死という最後の未来
(石原慎太郎)
2位 鬼滅の刃 風の道しるべ
(吾峠呼世晴)
3位 報道写真集 祈り
(新潟日報社編)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約