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評者◆稲賀繁美
ひとはいつ・いかにして親鸞に呼ばれるのか――日本信仰思想史における宿命の周期律(前)
No.3369 ・ 2018年10月06日




■以下は、本書の澄んだ明晰さとは無縁の、只管暗愚なる、仮初の「読書ノート」である。
 本書は懼るべき書物である。だが「おそるべき」などという形容は、その達成を裏切る。達成といったが、努力の末に知的な頂きを極めるというのではない。反対に、登頂の野望が孕む危うさを、登頂に勝る努力によって踏破している。だが「あとがき」で著者は「とりあえずここまでは考えてみた」が「その先は遥かに遠いだろう」との感慨に耽る。「大きな誤解」なきやを恐れ、己の「非力」を表明する著者だが、それは自己韜晦でも自惚れでもない。「他力本願」が成就されるとは何を意味するかを理詰めで追った結果だからである。著者の新境地とも見紛うが、大学で宗教学を専攻した「映画史研究者」にとって、親鸞への接近は「蕩児の帰宅」、ながらくの封印を解く契機だった。だが機が熟したといえば、事態を裏切る。あたかも阿弥陀が親鸞に到来したのと同様、一切は親鸞の「御計らい」だったのだから。
 四十年に及ぶ執筆の末、一五〇冊に及ぶ著書の膨大な累積の上に、著者がゆくりなくも到達した地平。それを本書に見極めるのはたやすい。『叙事詩の権能』『回避と拘泥』『日本の書物への感謝』さらには『パゾリーニ詩集』などあってこその成就。通常の書評ならばその「絢爛たる知の天蓋」を要領よく記述すれば、それで足りよう。だが、そんな訳知り顔の評価を手向けても、それだけでは無意味なことを、本書はおのずと諭す。それも肩に力の入らない自然態のまま。書評子が「ここまで分かりました」と得意げに要約してみせても、仏教学の専門筋がどこに不備があると指弾したにしても、そうした論及はかえって本書が何を成し遂げたかを見事に見損なう失態となる。とはいえそうした「理性の巧緻」は、間違っても本書の達成を誇るものではない。知性はとかく己が卓越性を誇示し、華麗な学識に妄信しがちなものだ。そんな知性の自惚れが、親鸞の著作を読み解く行のうちに、おのずと悔悟されてゆく。それも信仰共同体の讃仰する祖ならぬ、「非僧非俗」の「愚禿」の自嘲を通して。
 そもそも親鸞に接近するとは何を意味するのか。聖人の没後に言行録として纏められ、近代に復権された『歎異抄』。その筆録者とされる唯円の宗門からの疎外と孤立が、trickyな「警句集」の編纂の蔭に炙り出される。読者を煙に巻く「親鸞」の逆説や独断を巧みに振付けした正統擁護の書。その唯円の、弟子ゆえの矜持や鬱屈。著者は親鸞と唯円との「微妙なズレが、そっと浮かび上がる」局面、微妙だが雲泥の差が口を開く瞬間を見逃さない。それとは対照的に「ひそかにおもんみれば」とsotto voceで語り起こされる『教行信証』は、試行錯誤と捻転と旋回さらには屈曲転調をも伴った膨大な資料集積体。親鸞はその執筆を側近の門弟にしか明かさない。『歎異抄』もまた、唯円に加え再発見者たる蓮如により封印された。それらを近代の意味で「個人著作」として読む行為は、はたして親鸞への接近を保証するのだろうか。著者は福音書編纂に関する聖書学の知見、映画編集のmontage技法などを動員して『教行信証』生成の経緯を推測する。道元の『正法眼蔵』のみならず『ヨブ記』やダンテ『神曲』との相互照射のうちに、この「無花果の実」さながらの「無量」の集積が高原plateauをなす経緯を辿り、「横超」を旨とする海路の果て、光明に至る軌跡を追う。
―――つづく

※四方田犬彦著『親鸞への接近』8・20刊、四六判528頁・本体3000円・工作舎







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