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評者◆杉本真維子
塩でもみもみ
No.3356 ・ 2018年06月23日




■昨年末から料理を始めた。これまで、肉や野菜を切ったこともなく、料理にダシが必要ということも知らなかった。肉は部位によって味が違う、ということにも気づかずに生きていた。苦手というより、まったくの無知で、料理はとてつもなく難しいものだと思い込み、恐れていた。
 そんなわけで、結婚して1ヶ月は夫が料理を作っていた。会社から帰ってきて疲れているのにわるいな、と後ろめたい気持ちはあったが、できないものはできないのだから、仕方がない、と開き直り、心のなかでふて腐れていた。
 そんなある日、年上の詩人Pさんに会った。Pさんは、結婚前に一度夫に会ったことがあり、それ以来、○○元気?と、彼を呼び捨てにして親しんでくれている。そこで私は、料理をしていない現状をそのまま話したところ、Pさんの表情がみるみる険しくなった。
 だめ! いくら作らなくていいって言われたからって、そんなことをしてたら絶対にだめ! 酢の物とか簡単なものから作ってみたら? きゅうりを切って塩でもみもみ、もみもみってすればいいの。
 もみもみ、ですか?
 そう、もみもみ。
 帰り道、さっそくきゅうりを買って、塩でもみもみした。教わったレシピどおりに三杯酢を作り、わかめを加えて、菜ばしであえ、味見してみたところ、作ったものが、ふつうに「きゅうりとわかめの酢の物」になっていることに感動した。
 しばらくすると、次は何を作ろうかな、と考えている自分がいた。さらには、じつは作ってみたかったもの、が心の奥底に大量に眠っていることに気がついた。肉ジャガなどの定番ものから、ほうれん草の白和えなどの副菜、りんごケーキなどのデザートものまで、休むひまなく次々と頭に浮かび、レシピを調べて作ることを繰り返していると、十日間くらいで一通りの定番メニューは作れるようになっていた。
 これに驚いたのは夫で、会社から帰ってくるや、台所に立っている私を見て、急に料理を作れるひとになってる! と声を上げた。別人のような変化に恐ろしいものを感じたのか、茹で上がったイモに飛びかかり、全力でこね、イモ餅をフライパンでじゅうじゅう焼いている姿を見て、おびえていた。
 大丈夫だから、と夫を慰めながら、連日夜中まで、この40ウン年分を取り戻すように、料理に没頭した。それらはレシピ帳にまとめ、最近中身を整理していたら、2ヶ月で70種類くらいのおかずを作っていた。
 この情熱はなんなのか。小学生のころから詩のことばかり考えてきたことが、料理をしなかった理由になるとは信じがたいが、私はこの信じがたいことが本当に理由になってしまうほど、極端に不器用で、詩以外のことはほとんど放棄して生きてきた。
 こういう日々が、いつか詩になるとはあまり思えないが、いまは気が済むまで作るしかない。それでも、料理に対して一線を引いていて、目分量では作らない、と決めている。その日の気分や体調で微妙に味が変わるような不安定さをなぜか拒否していて、最近、その理由が、詩を推敲していて迷路に嵌ったときの途方もなさに似ているからだ、と気づいた。こういう途方もなさは、詩だけであるし、味覚には文字がないぶん、道に迷ったらもう真っ逆さまだろう、という予感もある。だからこそ、計量カップとスプーンでキッチリ、かつ、おいしい、が、べらぼうに気持ちよい。
 昨日はまた卯の花をボール一杯分こしらえた。こんなにある、と静かに驚き、ニヤリとすること。ただそれだけのことが、日常の心を満たすのなら、その積み重ねで、なんとか生きていけるような気もする。
 それにしても、いい年をした私に、塩でもみもみ、もみもみ、とPさんは何度も言ったのだった。このやさしいオノマトペでなければ、きっと私は動かなかった。拗ねて固くなった心には何が効くのか、Pさんはわかっていたのかもしれない。







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