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評者◆平井倫行
穏やかな顔――奇想の絵師、ジュゼッペ・アルチンボルドの端正な自画像の強い印象について
No.3313 ・ 2017年07月29日




■海辺を散歩するのは夜であれ昼であれ良い。波の音を聞いていると、考えが良くまとまるからである。
 心の安定を保つため、あるいは情緒に均衡を保つため、人はみなそれぞれ個人的な流儀を有すであろうが、刺青が精神の問題と関係し、時にその解決にさえ寄与するという報告は多く存在し、施術後「生まれ変わったようだ」「自分の身体が自分のものになったようだ」のごとき体験談は実によく見出される。それは一つには、刺青を彫り上げた達成感もあろうし、また進んでいえば、彫った以上基本的に消すことが困難な刺青において、やはり図柄は、その者の人生にとり何がしか指針となるモティーフが選ばれるゆえ、という事情もあろう。
 「不安」、それは多く自身が現世において拠って立つ場所、座標が明確でないことに起因する。そうした意味において、確かに人間の精神や内側のイメージを絵画的に、あくまで表層として経験させる刺青とは一面、自己の生き方や在り方、この世での立ち位置の把握を助け、促すものとなりえよう。刺青がしばしば部族や集団における成人の証、階級表徴に用いられるのも、それがその社会や宇宙における関係性に自己を記入し、登録する行為であるからにほかならない。刺青を彫る際に必ず克服せねばならぬ「痛み」は、実はその過程自体が、一人の人間が「痛み」を通し「己の身体」「自分がここにいる」リアリティを確認し、より自立した存在へ至るための「試練」であることを物語っているのである。
 ところで、世の中全体が幸福な未来予測を抱いていられる時期はさして問題にならないが、例えば政治転換期など、みながみな何がしか漠然とした不安を水面下に感じ生きているような状況、「何かが壊れてしまうのではないか」という意識に緊張しているような状況においては、その「共有された不安」は個人的問題を越え、世相の裏側を反映した像を結ぶものである。必ずしも身体に刺青を入れなくとも、人は時代が感受する身体イメージを時に理想的に、時に嗜虐的に表象する。現在、国立西洋美術館で大規模な展覧会が催されている奇想の絵師、ジュゼッペ・アルチンボルドの画業などは、その分かりやすい一例なのではないか。
 一五二六年、ミラノに生まれたこの稀代の芸術家は、時の神聖ローマ皇帝の寵愛のもと人間の身体を様々な寓意モティーフに組み替える「合成された顔」により声名を得た。幻想や驚異は、この画家を修辞する言葉としてあまりにも慣用化してしまったようにも思われるが、しかし本展の目的は、そうした既知の像を再び確認することではない。むしろそのコンセプトは、人々の眼を惹く強い個性を有す「作品」の魅力ゆえに、従来かえって見過ごされがちであった画家の生涯、時代環境といった「背景」を浮き立たせる新鮮な視点にあるのであって、それは会場に入ってすぐ我々を出迎えてくれる、画家の静かな自画像にも象徴されているのであろう。淡青インクで素描された芸術家の顔貌は、変容や歪曲とはおよそ縁遠い、精神的で高貴な印象を漂わせている。
 実際、アルチンボルドの代表作である《四季》や《四大元素》などの優品は、歴史的文脈や画家の人生といった奥行きから見られればこそ、その独特な意味合いも強調されてこよう。芸術家が活躍した時代とは、宗教改革やローマ劫掠といった世界不安の著しい影響下にあり、それは「みなが当たり前に続くと思っていた」世界の在り方が激しく動揺した時代であった。これら四枚の連作は、人間の横顔を季節の産物や有り様によって巧みに構成することで、一つ一つが春夏秋冬・地水火風を寓意し、画家は万物流転の理を表しながらも、それを超越する帝国の絶対性を寿いだ、というわけである。自身幾度もの転機を経験し、明日知れぬ世の渦潮を漕ぎ越えて栄光を得た画家は晩年、宮廷を辞し、故郷の地からあたかもその人生を振り返るかのごとく、全ての季節を含意した一枚の肖像画を描いた。四季の宝冠に彩られた朽木を前に、画家は老境、何を思っていたのであろう。
 ちなみに、これら「合成された顔」が通俗水滸伝連作を描き、日本の刺青文化とも大変関わり深い幕末の浮世絵師・歌川国芳の作例と類似することは、多く語られてきたごとくである。寓意画としてのアルチンボルドの手法と国芳の創意との間には根本的な思想の隔絶が存在するため、これをひとしなみに論じるわけにはいかないが、しかしある変革期に生じた身体表現上の不可思議な共通には、やはり素直に感じ入るものがあろう。
 岩場に打ち寄せる波の形は一瞬一瞬と異なり、一つとして同じ表情はない。変わらぬことの大切さもあるが、生の全体性とは変わりゆくものの中にのみ存在し、人の誠実さも喜びも、みな永遠などという言葉に甘やかされぬからこそ美しい。
 実は私が今なお強く胸にとどめるのは、奇想に富んだ高名な寓意画の数々ではなく、なんの衒いもない、あの端正な画家の自画像である。
(刺青研究)







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