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評者◆睡蓮みどり
こんな監督を待ち望んでいた――ラーフル・ジャイン監督『人間機械』、カルラ・シモン脚本・監督『悲しみに、こんにちは』
No.3361 ・ 2018年07月28日




■人生で初めてインドを訪れた。3都市を周ったが、それぞれに違った印象があり、とてもではないが一言で語れない国であると実感した。とにかく広い。ガンジス川流域に位置するヴァラナシでは、多くの人が死を待ち、ガンジス川のほとりで焼かれ、川に戻ることを待ち望んでいる。その独特な匂いと、生と死が混在する不思議な感覚は決して忘れることができない。またムンバイでは、折れてしまうのではないかと心配になるほど高くそびえたつビル群の合間に洗濯工場があった。カラフルな衣類やリネンが所狭しと干された洗濯工場の近くをうろついていると、声をかけられた。150ルピー(約250円)で工場のなかを案内してくれた。ちなみに、アイロンがけ1枚につき1ルピーの稼ぎだそうである。洗剤入りの水たまりで遊ぶ子供を見て心配になるが、子供たちは私を見ると、どこから来たのかと興味深そうに話しかけてくる。
 また、スラム街にも行った。もちろん勝手に行ったわけではなく、そういうツアーがあるのだ。現地のガイドの人の説明を聞きながらも、入るなりハエの大群の洗礼を受けるが、そんなことはすでに気にならなくなっていた。人々の目は厳しさを滲ませ、外からのこのこ見学にやってきたどこぞやの観光客を決して歓迎してはいなかった。当然、そんなこちらの居心地の悪さなど、日々の生活をそこで必死にしている彼らにとってはどうでもいいことだ。スラム街のなかは雑然としている一方で、驚くほどにきっちりと仕事の棲み分けがされていて、想像していたよりもずっと効率を重視しているように思われた。お菓子工場、衣類工場、革製品工場、ゴミのなかからプラスチックを集めて再加工する工場と、他にもまだあったようだが、私が見たのは(つまり外に向けて見せられるのは)そのほんの一部に過ぎない。
 ラーフル・ジャイン監督のドキュメンタリー映画『人間機械』(7月21日より、渋谷ユーロスペースほか、全国順次公開)を観たときに、不思議な既視感を覚えた。もちろん、インドでの洗濯工場とスラム街の経験によるもので、他に由来する既視感ではないことだけは確かだ。作品の舞台は北西部のグジャラート州で、私はこの地を訪れていない。ただ浮遊するようにずんずんとなかに入り込んでいくカメラとともに、自分もいつの間にかそこに立ってしまっているというヴァーチャルな感覚があった。ほとんど説明のないまま、巨大な工場の迷路に入り込んでしまったというか。
 監督の祖父はかつて繊維工場の経営者だったという。つまり、搾取する側の人間だったわけだ。ここで働いている人々は、言ってしまえば搾取される側の人たちである。過酷で長時間かつ低賃金労働を強いられている。彼らに向けられたカメラに映るのは、必ずしも敵意とは呼べないが、こっち側ではない異質なものを見つめるときの目だ。13億人以上いるインドではヒンドゥー教徒だけでなく、イスラム教徒も仏教徒も混在する。ヒンドゥー教のカースト制度の意味合いが変わりつつある今日でも、過酷な労働を強いられる人々はまだまだ多く存在する。この迷宮のような工場に映り込む光も闇も、まるで簡単にはそこから抜け出せないのだと暗示するような畏怖が、機械の轟音とともに映る。
 子供の頃の遊び場だったようなこの場所に、撮影のために入ってきた監督自身はどんなことを感じたのだろうか。当時とどんな見え方の違いがあったのだろうか。労働者の鼻歌、問い詰めてくる彼らのまっすぐな怒り、悲しみ、日常。生まれもっての自身の階級への戸惑い。この71分の映画に映っているのは、ほんの一部に過ぎないだろう。美化することのできない現実が、力強く暗闇のなかで轟いている。だから美しさが弱く見えてしまう。ラーフル・ジャイン監督は、きっとこの作品で感じた戸惑いを、ずっと忘れることはないだろう。
今年のカンヌ国際映画祭でウーマン・イン・モーション・アワードを受賞したことでも話題になり、すでに世間からも注目を集めているカルラ・シモン監督初の長編作品『悲しみに、こんにちは』について触れたい。というか、触れずにはいられないのだ。本作で初めて彼女のことを知ったが、本当に彼女のような監督を待ち望んでいたように思う。エイズで両親を亡くし、叔父夫婦の家に引き取られた少女フリダ(ライラ・アルティガス)のひと夏の物語であり、カルラ・シモン監督自身の記憶の物語でもある。バルセロナの家から叔父夫婦の暮らすカタルーニャへと引っ越すのだが、舞台となった1993年はカタルーニャで独立運動が盛んな時代でもあった。
 記憶の物語、といっても単に回想的な幼少期の思い出で済まされるものではない。一方でホームビデオ的な身近で優しい雰囲気を醸し出しつつも、他方で少女の心に潜む孤独や苛立ちが伝染してくる。叔父夫婦は良心的な人間であるけれどもまだ若く、自分たちの幼い子供アナ(パウラ・ロブレス)とともに6歳のフリダを育てるのは容易ではない。フリダにしてもそれまで両親に甘やかされて育ってきたのか、わざと甘えてみたり、アナにちょっとした意地悪を言ったりもして、新たな家庭に簡単には馴染めない。また、血液検査の結果が出るまでは、近所の子供と遊んでいて怪我をすると、腫れ物を扱うように一緒に遊んでいた子供の母親から恐れられてしまう。またあるときは、自分は嫌われていると思い込み、家出をしてみようと決心する。
 子供を子供として描くことは本当に難しいことだ。この作品には商業化された子供の純粋無垢なイメージを背負わせようとするあざとさもなければ、無理に子供らしさを付け加えようとする押し付けがましさもない。説明的ではないが、見守るうちに(この映画は観るというより見守るという言葉がしっくりくる)、そこで起こっている多くの事柄が、いつの間にかこちらの身体に沁み入ってくるのだ。あまりにも自然に。とても台詞があるように思えず、ましてやこれが監督自身の物語であるということなど、すっかり忘れてしまっている。
 フリダとアナという二人の子役がどこまで何を理解し、意識しているのかはわからない。ただちょっとした動きや言葉に、思わず笑いたくなるようなおかしみが散りばめられている。二人の子供が大人の真似をしてふざけているシーンが特に好きなのだが、愛おしさとは彼女たちのためにあるようにさえ思えてくる。彼女たちは当時、周りで起こっていることなどわかるはずもないだろう。大人になってみてから、そのとき起こっていた様々なことが、現在の自分に影響しているのだと気づくことはたくさんある。たいていのことは忘れ去られて過去のことになってしまったとしても、風化されることなく子供時代の自分が目の前にいるような感覚になることが確かにある。フリダが大人になったとき≒現在のカルラ・シモン監督は、客観視する聡明さを持ち備えながらも、麻痺しない子供時代のあの孤独や悲しみや喜びや愛情のすべてを、目の前で見せてくれる。叔父夫婦と小さなアナという新しい家族とともに過ごす、ふとした時間のなかで、フリダはそれまで知らなかった感情を知る。この映画の本当の底力はラストシーンにこそある。ぜひ見てほしいのでこれ以上多くは語らないが、私はそこにいるフリダを心から守りたいと思ったのである。彼女はたまたまフリダという名前の女の子であるけれども、彼女は守るべき子供たちの姿をしていたのだった。
(女優・文筆家)







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