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評者◆稲賀繁美
紅茶と緑茶の争いのさなかに――岡倉天心『茶の本』再考・蛇足
No.3243 ・ 2016年02月20日




■イサベラ・スチュワート・ガードナーのバーナード・ベレンソン宛ての書簡には、ボストンのガードナー邸で岡倉覚三(1863‐1913)が催した「チャ・ノ・ユ」の夕べに体験した感激が綴られている。『茶の本』の出版は1906年だが、それに先立つ1904年のセント・ルイス博覧会のおりに岡倉は、欠席したルーヴル美術館館長に替わって講演をこなしている。この博覧会では大谷嘉兵衛(1845‐1933)が当時、生糸と並んで日本の重要な輸出品だった茶を扱っている。とすれば『茶の本』も、日本の輸出振興策の一環として刊行された英文著作だったのではあるまいか。
 あまり知られていない事実だが、19世紀後半の北米では緑茶の消費が紅茶のそれをはるかに上回っていた。これに対して大英帝国は、まだ茶の生産地としては未熟だったセイロンやダージリンを高級な紅茶として、北米大陸に売り込む大攻勢をかけ始める。日本茶には苦力の汗が混入していて不清潔だなどの、露骨な人種差別的キャンペインが、当時の新聞広告に掲載されている。背景には1848年以来のゴールドラッシュでとりわけカリフォルニアなどに中国系移民が大量に流入していたという事情もあったろう。世紀末の中国人排斥に続いて、大地震に続く1907年には、日米の「紳士協定」に基づき、事実上の日本移民排斥法が制定され、多くの日系移民が巻き込まれる。それは大陸横断鉄道により太平洋岸から中西部や東海岸に商品を大量輸送できる動脈の成立とも裏腹の事態だった。ブラジルへの公式移民第1号となった笠戸丸のサントス入港は1908年のこと。北米から南米へと、日本からの移民の目的地はこれ以降、大きく変更された。そしてそれら日系移民の多くが、サンパウロの後背地に入植し、原野を開拓して、茶ならぬコーヒー栽培に従事することとなる。
 岡倉はボストン茶会事件によって北米独立のきっかけとなったボストンにおいて、ガードナー夫人をはじめとする上流階級の、通称ブラーミンたちに、紅茶black teaに替わって日本の緑茶を高級品として売り込む宣伝係を演じていたことになる。緑茶green teaといっても当時北米で大量に消費されていたのは煎茶であり、当時日本でも流行を見せていた。たしかに岡倉も北米で抹茶の濃茶whipped teaを点ている。とはいえ彼の推奨したチャ・ノ・ユの実態も、煎茶steeped teaが中心であったようだ。保存困難な抹茶powder teaが岡倉の『茶の本』に述べる茶の本流だと思い込むのは、勘ちがい。それは大正年間以降の、財閥を中心とする新興階級による茶の湯再興から過去を振り返って、今日の我々が犯しがちな逆遠近法の錯覚だったはずである。
 では岡倉の『茶の本』は「平和のための兵器」peaceful warfareとして成功を収めたのか。輸出振興策としては、功を奏したとは言い難い。インド・セイロン原産の紅茶輸出が文字通り倍増を重ねるのに押されて、輸出商品として緑茶が北米市場で占める割合は、1910年代以降著しく低下してゆく。だが文化大使として、茶道は世界各地に散種されていった。岡倉のThe Book of Teaは英語文献の古典となり、世界各地の言語に翻訳され、今も刊行が続いている。元来は労働者階級の安価な飲料だった輸出用緑茶は、この壱世紀の間にいつしか高級な文化伝達媒体へと変質した。はたしてそれは岡倉の意図だったのか。それとも意図せざる逸脱だったのか。

※国際日本文化研究センター開催の国際研究集会「万国博覧会と人間の歴史」(研究代表者:佐野真由子,2015年12月17‐20日)でのRobert Hellyer「戦うティールーム:万博を舞台に、アメリカ市場を狙って繰り広げられた日英戦争1893‐1917」への筆者の即興のコメントに基づく。佐野編・同題名の論文集は思文閣出版より刊行。







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