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評者◆内堀弘
幻の本と古本屋――敗戦の年に満州で刊行された『雑巾先生』(小尾十三著)
No.3223 ・ 2015年09月19日




■某月某日。古本の世界には「幻の本」と呼ばれるものがある。作家小尾十三の芥川賞受賞作を収めた『雑巾先生』もその一つで、敗戦の年(昭20)に満州文芸春秋社で発行された。内地に送られたものはほとんどない。
 『さまよえる古本屋』(平27・須賀章雅)を読んでいたら「ああ、雑巾先生」という小説仕立ての短編が面白かった。もう四半世紀も前、札幌の新鋭古本屋だった著者は東京のオークションに参加する。そのときの目玉が『雑巾先生』だった。私もよく覚えている。幻の本が姿を見せたというので、落札値は二百万を超えるだろうと噂された。須賀の短編は、この幻の本よりも、それを落札したU文庫という若手の古本屋を活写する。
 U文庫は神保町の裏路地に事務所を構えていた。私とは同い年で、店は違っていたが神保町の店員時代からの仲だった。柔らかな人柄もあって、独立すると良い客が付いた。彼の店の在庫カタログにはいつも超一級の稀覯本が並ぶ。それだけの品を頒けてくれる顧客がいて、それを買う顧客もいたのだ。私は郊外だったので、神保町は凄いところだと驚くばかりだった。
 オークションに登場した『雑巾先生』は、三六〇万でU文庫が落札した。まだ十年の業歴もない新人が、全国の同業の前でひときわ注目を浴びた。須賀の短編はその時の会場の様子や、酒席でも羽振りのいいU文庫を描く。羨望しかなかったと言うが、数年後に「U文庫が飛んだ」と伝えられる。
 右から左に動かすだけで稼げるようになると、U文庫は朝まで飲んで、夕方ちかくに事務所へ顔を出すようになった。それで続く商売などない。やがて、夜逃げ同然に彼は消えた。
 その報せに須賀は「背中にすうっと寒気が走り」「暗澹たる気分」になる。私にも羨望や妬みはあったが、それでも破綻を痛快とは思わなかった。駆け出しの古本屋が生きのびるのは運で、その運に恵まれても、こんなふうに消えていくものかと寒気が走った。あれから彼の消息を一度も聞かない。
 二冊はないと言われた『雑巾先生』が先日の鑑定番組に出た。その金額にスタジオがどよめいた。あのときの本だったのだろうか。







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