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評者◆大矢靖之(紀伊國屋書店新宿本店)
良い音、美しい音とは何か
羊と鋼の森
宮下奈都
No.3223 ・ 2015年09月19日




■主人公が様々な体験を経て人間的に成長していく物語は多いが、そこに哲学的なテーマが潜在しているのが宮下奈都という作家の魅力のひとつであるように思う。哲学的、という切り口でのみ捉えることは豊かな作品世界を損なうことになるかもしれない。だが、かつて哲学科を卒業したこの作家の描く世界観を、別の仕方で語っていけるよう努めたい。
 粗雑ながら、物語のあらすじを要約してみよう。本作、『羊と鋼の森』は、主人公の外村が高校で調律師と出会い、調律師の生み出すピアノの音色に魅せられ、自らも調律師を目指すところから始まる。調律師が生んだ音に、森の匂いを感じたという。その森の匂いに引き寄せられるかのように、山で生まれ育った外村は人生の進路を決める。彼は専門学校へ進み、技術を習得し、かつて自分に影響を与えた調律師が勤める楽器店に就職する。外村は、楽器店で働く数々の調律師からそれぞれの教えを受け、様々な依頼主と知り合いながら、良い調律師とは何かを目指してゆくのだ。
 自己探究の物語。そう読むことは勿論可能だが、『羊と鋼の森』はもう少し別種の射程と魅力を備えているように思われる。この物語には、探究をめぐる、哲学的とさえ言いうるような問いがついてまわるのだ。良い音、美しい音とは何か、という問いである。
 外村は次第に良い音、美しい音を出すためには、どのように調律すればよいか、という壁にぶつかる。ある時、外村に決定的な瞬間が訪れる。先輩の仕事に同行した先の、コンサートホールのピアノを調律する様子から、「風景だったピアノが呼吸を始める」(p.80)ところを目撃する。その音に魅せられ、導かれる。外村いわく、「自分が迷子で、神様を求めてさまよっていたのだ、とわかる」「僕のいる世界の神様は(……)今は、音だ。この美しい音に導かれて僕は歩く。目印を探して歩いていけるということは、僕も神様を知っているということだ。見たことはない。どこにいるかもわからない。だけど、きっといるのだ、だから美しいものがわかるのだ」(p.82)。プラトンの想起説を彷彿とさせる箇所であろう。
 だが、外村はそこで何かを直感したにもかかわらず、その音に近づけずに苦悩することになる。顧客から絶対にこの音でいいのかと聞かれ、どうすればいいか分からない。「絶対にいい音など存在しない。絶対という音はない」(p.209)とも考えてしまう。主観・客観に陥ることなく、美しい音をどうしたら作ることができるのか。彼は迷い続ける。外村には周りに師といえるほどの調律師が何人もいるにもかかわらず、だ。なおのこと、いい音への歩み方に惑い続ける。こう表現することが出来るかもしれない。外村は、かつて自ら神に比したような美しい音がどのようなものであるかは分かっているが、それが何であるかという知(エピステーメー)を持てず、苦しんでいるのだと。プラトン『メノン』における、探求のパラドックスの変奏曲が流れているように思う。
 だが外村は最終的に、良い調律師とは何かという自分なりの答えを出す。その解答によって、いい音が何であるかを探求し続けていくための基点を発見することになる。そうして外村は「隠されていたのでさえなく、ただ見つけられなかっただけ」(p.242)の、良い音を求め続けていくことだろう。良い音、美しい音への探求は終わることがない――そう暗示させるような、清爽で心地よく暖かみのある結末部については、ぜひ読者それぞれに確かめてほしい――あるいは、美しい音の探求過程で発見した、信頼すべき、できるだけ美しく響かせたい存在についても。
 この作品は、静謐さを湛えていながらも、読者それぞれの思考と感情をかきたて、魅了し、様々な感想を生んでいくはずである。優れた作品は読み手に幾種もの想像を許し、促していくものだと思う。そして、『羊と鋼の森』は、そうした作品に他ならないのだ。
 余談だが、思わずにやりとさせられた箇所がある。作中、「リーゼンフーバー社」というピアノのメーカーが登場する。ドイツの姓のひとつではあるのだが、評者は日本における有名な研究者の一人、クラウス・リーゼンフーバー上智大学哲学科名誉教授を想起してしまった。これまでの読みをこの箇所で補強する意図はない。が、ある種の縁のようなものを感じてしまうのだった。音楽と哲学、そして著者の間を伝う縁のようなものを。







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