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評者◆谷岡雅樹
トライアングル・ラブ・レター ――呉美保監督『きみはいい子』
No.3213 ・ 2015年07月04日




■井上陽水の『傘がない』の歌詞みたいだけれど、戦争、軍隊、安保、憲法をめぐる大きな問題があり、洋上をミャンマーの難民船が漂流している一方で、身近には横浜、川崎、船橋、刈谷と連続して少年たちによるリンチ殺害事件が起きている。そして、これを書いている今、北海道・砂川から衝突及び轢き逃げ八人死傷事故のニュースが飛び込んできた。カンザス州の田舎町で起きた事件が全米の話題となるも作家に破滅をもたらした『冷血』のように、砂川の燻った激突痕から鈍い底辺社会の黒い匂いが立ちこめる。友達にタリウムを飲ませ、通行人に硫酸をかけ、高層階から二リットル入りペットボトルをぶつける単独犯が跋扈する。明るさや前向きさ、ポジティブが強調される消費広告に塗れての一方で、ブラック会社入社で面食らう若者は、そのギャップの奇天烈さと恐ろしさで狂っていっているのではないか。過保護に育って免疫のないまま団塊世代の社内暴力に遭遇する。
 独裁者や愚鈍な首相が現れたとき、それらを生みだしたのは、眠れる大衆であり、騙されやすい庶民である。だから覚醒している「私たち」読者や観客がなんとかせねばならぬと勇気を持つような映画や書籍は、選民意識を持ったその作り手とファンとの自己満足の回路であり、むしろ最も世の中を動かさない装置として機能する。逆に、本気の
裸体は機能させてもらえない。「世の中を悪くしているのは、(選ばれているつもりの)きみ自身だよ」と読者や観客を直撃する言葉、聴いて耳の痛い作品は拒否される。と同時に、本当に耳の痛い話に服を着せて、自分に降りかからない表現へと歪曲して、別の姿で表現者を体制側や都合のよい味方として取り込もうとする動きが生まれる。業界自体が表現を矮小化させ、そのジャンル内に閉じ込める。前向きとブラックのはざまで表現に出合えない若者たち。彼らに対して、「ここにあるよ」と私は叫びたいのだ。だが音声は、文字は、届くのだろうか。
今回取り上げる作品は、『そこのみにて光輝く』で二〇一四年の映画各賞を総なめにした呉美保が次に撮った話題作で、原作は坪田譲治文学賞受賞の『きみはいい子』だ。
 批評家として私が特別な存在でありたいなどというつもりはさらさらない。だけど、特殊な場所からしか語ることが出来ない。素直に褒めたり応援したりすることが出来ないし、ワーストに選んで叱咤激励みたいな安っぽいパフォーマンスを演じることは批評性を欠き、ウソにも劣る行為だ。何がしたいのか。
 呉美保監督は映画ファンダムの玩具になってはいけない。狭い映画村の英雄になってはいけない。といったどうでもいいことについ力が入ってしまう。橋下徹や安倍晋三はいくら強い表現でも、それが政治である以上は、そのことだけで評価できないけれど、芸術娯楽表現活動においては、それがどう悪徳背徳に満ちていようと、そのことだけで評価したい。逆に、いかに初期衝動や行動規範自体に共感できても、最低限の表現ルールを無視していては表現の土俵に上っていない行為だ。稚拙な出来にはありのまま評価したい。表現どころか政治活動以下と言わざるを得ない。
 『きみはいい子』には三つのエピソードが登場する。虐待される小学生と担任の先生。子をネグレクトする母とママ友。自閉症児と通学途中の家に一人暮らす軽い認知症の老人。以上の三話それぞれが事件として問題として同時発生し、地域的に、或いは、普遍的な苛立ちとして、不安材料として繋がっている。そこには三八人の男女クラスメート皆を「さん」づけで呼ぶ新人教師の或る意味での責任回避があり、親の顔色をうかがう子に自分自身の姿を見つけ余計に腹を立てる病があり、自閉症児の子を持つことで卑屈になる母がいる。これがどのくらいに耳の痛い物語であろうか。
 呉美保の前作を観て、友と少々の議論となった。たとえば『八月の濡れた砂』『青春の蹉跌』『青春の殺人者』『十九歳の地図』『遠雷』『さらば愛しき大地』といった七〇年代から八三年までの日本のニューシネマをなぞったよく出来たフィギュアのように見えると友人は言う。伊佐山ひろ子の使われ方など絶妙で、巧さを感じる、邦画ファン向けのプラモデル。だが、監督にそういった意識はほとんどないと私は見る。決して嫌らしさには至らない。社会派フォークと四畳半フォークの図式が、(松田政男流)天下国家を論じるか、半径五メートル映画となるかに色分けされても、呉美保はそこから零れ落ちる。呉美保は本当に作家なのか。観客そのものを打ち抜くヤクザなのか。それとも題材を共通の第三者として、観客にとって自分の問題とさせない安楽な砂糖菓子製造業者なのか。その基準は、劇中で子を叩く役者・尾野真千子の「演技」がフェイクなのかどうかにかかっていると私は見る。どうでもいいという人はいる。西部劇の戦闘シーンで馬が死んでいるのではないかどうかに拘る私。読者も観客も、問題とし批評し、或いはバカにする対象が共通の第三者ではなく、自分の姿と重なる時に、矛先が自らに向くときに、一緒になって笑ってはいられない。
 苦労していないと逆境に弱い。ただそれだけのことである。費やした時間の凝縮、労苦のあとの痕跡がその逆境の一瞬に現れる。何も太刀打ち出来ない。それはスクリーンに現れると確信している。日常の佇まいが画面に出るんだと語っていた生前の高倉健。一秒で笑える桜田淳子と一〇秒かかっても笑えない山口百恵には、生きてきた時間に差がある、と言っていたのは阿久悠だ。
『子宮に沈める』という映画があった。大阪二児餓死事件が元になっている。「世間は親を厳罰しろという声だが、それに疑問を持って映画を作った」と監督は語った。プレスシートにも〈繰り返される育児放棄という殺人事件。その度に母親だけが糾弾される。子殺しという許されない大罪は、母親だけが責を負うべきものなのか?〉とある。つまり、母という立場に同情的な立場である。だが映画自体は、母を擁護していない。監督の心情は、本当は、「母」の方に、「しっかりしろよ」と言っている。それはエールではなく、明らかに、「どう撮っても、同情なんてできないよ」と冷たく放置しているかのような映像だ。結果として、母親をより糾弾する映画に仕上がっている。子ども(赤ちゃん)の泣くシーンは演技ではないだろう。それは、泣かせていることになるが、いかに映画のためとはいえ、何処までその責任を取るつもりで撮っているのか。幼い子ども二人だけのシーンは、シナリオがあるのだろうか。自由に演技させて(行動させて)、それに対して、ドキュメント的に回しているのだろう。何らかの悪影響を考える。包丁のシーンは模造のものだろうが、それでも危ない。この危険度は映画を観て、その観た者が決めるしかない。暴力か躾か。しごきか愛の鞭か、強姦か和姦か、紙の契約か一時の気の迷いか。
 『子宮に沈める』に対して〈「子育ては母の手ひとつで」。そんな“呪いの言葉”が母たちを、そして子供たちを苦しめていることになぜ気付かないのか〉と、香山リカが書いている。「母一人に任せるな」という気持ちは私にもある。問題提起だけなら皆、既にしている。映画はやはり、一つ先の意見に踏み込んで、問題を起こさなければ、表現としての強さと自立がない。社会に問題を突き付けるというとき、当事者自身であるか、またはかなり一体化した意識の持ち主であることが多い。かつての記録映画は、その一体化と伴走に賭けていた。そうでなければ、その主張には、強さも宿らず、本物の真剣さに欠ける場合がある。ただの題材として映画にしたいとか、やりたいというのでは、「責任」のラスト一文字まで撮れない。
さて、尾野真千子は、子供を殴っていないとインタビューで語っている。トラウマとならぬように毎回抱きしめてあげた。そう語ろうが、事実であろうが、どう見えるかだけである。それが愛なのかどうか。人殺しをそのまま撮ると殺人事件だが、叩くシーンは傷害事件とならない。前歯の一本もない子供のリアリティを特撮で撮るか。いくら達者な子役でも叩かれるシーンでは「役者」となっていいものか。自閉症児を演じさせられる意味。ロマンポルノでの強姦シーンがトラウマとなった人もいるだろうし、アダルトビデオのそれは問題を孕んでいる。
 手を握ったら握り返してくれる/目を見つめたら見つめ返してくれる/抱きしめたら抱き返してくれる/愛したら愛し返してくれる/それだけが大切なこと……とは、三〇年前にアメリカに移住した従妹が最近メールしてきた詩だ。まーちゃん(注・谷岡の愛称)。この詩はまさしく感情にまかせた詩だからね。私の気持ちの一部。と最後に添えられていた。映画を観ている間じゅう、アメリカで傷だらけになりながら生きてきたその従妹を想った。インドネシア人と結婚しジャカルタに移住も、スマトラ島沖地震に遭遇しアメリカにもどった。日本での震災に衝撃を受けた彼女は、帰国して教師をすると慟哭していた。この映画は、身近な問題を扱っていて、どこかの町に暮らす誰かや、どこかの国に生きる誰かと、ダイレクトに繋がっている。世界はみな生き地獄とか、世の中は行くさきざき戦争だらけなどと軽すぎる総括をして済ませられる場所にいる私ではない。だからこそ、身近に戦争があり、地獄が広がっていて、その根源が自分自身の中に存在することだけは、知っておかねばならない。そこから本物の悲劇と涙が始まること。「難しい事を易しく、易しい事を深く、深い事を面白く、面白い事を真面目に」云々といった井上ひさしの言葉があるけれども、呉美保はその優等生だ。最後の一シーンを見るだけでも表現の凄さ足り得ている。真面目な人間の表現がこの先どう進んでいくのかを、私はずっと見ていたい。そして若い人にこそ、観て、感じて、抱きしめ返して欲しい。
(Vシネ批評)






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