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評者◆谷岡雅樹
その銃を棄てろ!――ミシェル・アザナヴィシウス監督『あの日の声を探して』
No.3205 ・ 2015年05月02日




■五月公開の『涙するまで、生きる』は傑作だ。主人公のフランス人教師は、殺人罪で追われる者を自分の範囲内で助けるが、本当には助けられない。原作者のカミュ自身がモデルでもある彼は、征服者としての欺瞞を見せる。コッポラが、『地獄の黙示録』のマーロン・ブランドでもって、正当化の許されない無意味な狂気を自らも体現しているという皮肉を演じたように、未開によって文明が、無抵抗によって侵略が、逆襲される。歴史は勝者によってつくられ、声なき声は掻き消され、生き残った者の自慢話だけが広まっていく。アルジェリアのアラブ人と征服した側のフランス人が友達になれるのか。映画ではアラブ人の方が、「フランス語を話せる」ことを憲兵には隠すも、主人公には話す。飽くまで歩み寄るのはアラブ人の方だ。いくらでも批判できるが、ならば友達になるにはどうするのだ。キング牧師と友となったティク・ナット・ハンもおそらくは英語で話しかけたであろう。無抵抗非暴力とは、相手の暴力への反撃を一切せずに見つめることからしか立ち上がらない。
 作家とは、日雇い労働者そのものである。と帯にある柳美里の本が話題だ。私も物書きだけでは生活できず、職業訓練校に半年通い、底辺職場として名高いブラック業界に就職してさらに半年が過ぎた。私の今いる派遣先現場には、元請けの上司たちがいる。下請けとして全部で六人必要ということで、去年から現在まで、一二人がやってきた。実際今もいるのは、私を含め三人だけで必要数に三人不足だ。つまりは九人が辞めている。残った三人のうち一人が今月で退職すると会社に通告した。皆パワハラによる。地獄絵図だ。軍隊は新兵を虐めることで教育するが、私の現場の場合は育てるのではなく辞めさせるのである。それでも私が辞めないのは、単に生活のためや物書きとしての興味ばかりではない。知りたいのだ。目の前の幾人かの上司が、何故これほどまでに虐めることができるのかを。他人の人格を否定し、その快感ですら満足できない心性そのものを。そこに人殺しの原理があると私は思っている。エスカレートする規制、検閲。こちらの真心は摩耗し、萎縮する。
 「上司」とは、怒って虐めて辞めさせるというのが職種であり立場であり生業であり商売だから仕方がない、とは訓練校教師の弁だが、そのシステム自体が、かつて大日本帝国へと邁進させた。辞めていった同僚は、シリアで二人の日本人が殺されたことなど報道の必要がないと怒る。「行く方がバカだ」と。勇者を平気で傷つける言葉の飛び交う環境で、道理を噛みながら、慟哭し仕事をしている。過酷な現場からの発信だから、活きた評論が生まれるというものではない。だが、鬼がいて、予備軍が鬼になる瞬間の現場を目撃している。今回紹介するのは、映画からはみ出し外に向かわなければならない宿
命を背負った作品だ。『涙するまで、生きる』の強度を映画内の事件とするなら、反戦、及び反傍観をドラマの外に向けて、映画的感動に収めずに謳った本作は、映画を超えた事件であり、これこそ二一世紀の資本と呼びたい。
『あ
の日の声を探して』という。地味なタイトルだ。九九年のチェチェン。惨事を見て声を失った少年。惨状を訴える女性。惨劇に手を染める青年。映画の中で、こう叫ばれる。「子ども一人助けられないで何が国連よ!」。この映画以外に今、私に語るべき映画はない。
 監督は映画の外でも訴える。これほどの惨劇があったのに、人々はなぜ無関心でいられたのか。無関心が多くの人命を奪うのだ、と。それは、今まさに起きている。去年今年とアメリカで、白人警官が無抵抗の黒人を殺す事件が連続している。無抵抗のイラク兵を虐殺するIS(イスラム国と表記し難い。国なのか)。そしてパキスタン。
 ノーベル平和賞受賞の際、マララ・ユスフザイは会場のカイナットという少女を紹介した。一三歳で性的暴行を受けた。パキスタンでは、親の許しを得ずに結婚または未婚で関係を結んだ娘はタブーとして殺される場合がある。名誉殺人と呼ばれ、特に男性優位の農村部では肯定される。カイナットは暴行され、その父は「娘を殺せ」という命令に背き一家は村を追われた。この掟を笑うのは容易い。因習は、文明から見ると古くて融通の利かない骨董品だ。だが、文明国ニッポンの、会社という特殊な共同体内のみで行われ
許容されている異常行為パワハラは、オウム真理教その他の宗教団体や北朝鮮、IS、パキスタンの風習と一体どこが変わるのか。『涙するまで、生きる』で、追われる男を逃がそうとする主人公は「逃亡」を拒まれる。「自分はフランス人に逮捕され処刑されたい。そのことで報復の連鎖を終わらせる」と。逃げ延びては家族が殺され、裁判を拒否して自分が殺されたなら弟がその復讐をせねばならない。掟からは逃れられない。シリアでの二人を見殺しにしたのは、不要な報道と蔑笑した同僚だけではなく、関心を示さなかった私がやはりそこにいる。
 この映画は挑戦状に感じた。物を書く人間の力が試されている。映画が感動だけの表現を上回ろうとしている。感動して解消され、そこに留まっては、次に繋がらない。もし本当に戦争がいけないと思うなら、思いを持続させ、自分にも「加担」の罪を、「傍観」の恥辱を感じるのなら、次の一歩を踏み出す意味でも、まずは観て行動しろ! と。観て、ただスッキリさせてはくれないが、だからこそ、地球を汚す目出度い無知となって死んでいく無様さから逃れられるかもしれない映画なのだ。そういう構造になっている。
 両親を殺され、自らも狙われるチェチェンの少年。ロシア兵は、チェチェン攻撃の理由などよく知らない。音楽好きでマリファナを吸う平凡な若者が平気で殺す兵士になる。国内で起きたテロをチェチェンの仕業だとした。攻める口実を作り戦争を始めたロシア。自由放埓に殺しまくり、岩手県程度の広さに一〇〇万人しかいない国チェチェンの人口の内、一〇万人が殺されたという。大統領は連続三代殺害された。日本人はこの蛮行を蔑ろには出来ない。一五年戦争の始まりとなった柳条湖事件もまた関東軍の謀略だったではないか。とはいえ原爆の実験場にされた。

つの側の苦悩というよりも、映画は両者の生きるための僅かな希望を描き出す。両親を失った少年ハジと出会い戦争を告発するEU職員のキャロルに加え、殺害する側のロシア兵となるコーリャをも描く。コーリャの陥る罪。敵のアイデンティティ破壊への訓練とストレスは、日本のブラック企業とそう変わらない。この男さえ誕生させなければ、被害もまた生まれなかったのか。いや、別の男が加害を演じただろう。救いは何と言っても被害者の側の笑顔だ。映画はその繊細な心情にまで入り込み、描いていく。
 職員と出会う声を失った少年。かつてテレビの取材記者だった犬養道子は、目の前の難民の子を可哀そうだと思っても、「仕事の裁量を超えて、助けることはできない」と言われ断念する。一人を助けたところで自己満足にすぎず、全体が、状況が変わるわけではない。それでもあえて彼女は、一人の子に手を差しのべた。そこからしか変わりようがない。あれから四〇年。犬養その他の尽力と叫びがありながら、状況はどれだけ変わったのか。
 ダンスナンバー『ユー・シュド・ビー・ダンシング』を掛けてキャロルが踊る。一緒に踊ろうと促すもハジ少年は踊らない。しかし彼女の消えた部屋で、ハジが踊る。忘れ物を取りに戻ったキャロルはその姿を目撃する。ストリングス・サウンドに乗せたヴォーカルグループだったビージーズが、『ジャイブ・トーキン』でファンキーなダンスソングへと転じ、次にヒットした曲がこれだった。七七年全米公開の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』でも印象的に使われる。家族や世間に存在を認めてもらえない下町のダンス男トニー・マネローが、宙ぶらりんのままダンスを踊る中で存在を確認していく瞬間がそこにはあった。ビージーズもこの曲自体もロック史的には、評価されていない。聴き棄てられていく歌だ。それこそが流行歌の本望だと言える。この曲が、九九年のチェチェンで本当に流れていたかは分からない。どう聴かれていたのかも分からない。六七年フランス生まれの監督にとって、或いはトニーやハジ少年にとって生きる上で貴重な曲だった。そのことだけははっきりしている。さあ、踊ろう、踊ろう。デヴィッド・ボウイもアバもジャニス・イアンも誰も彼もが言っている。踊ろう、踊ろう。バカみたいに、ただただ体を動かして、踊ろう、と。ピート・タウンゼントも言っている。〈ロックンロールは別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ悩んだまま踊らせるんだ。〉
 踊りにこそ、戦争を、殺しを、虐めを、検閲を回避する秘密があるのではないか。ビージーズを踊るキャロルと少年ハジ。一人は、文明に浸るも正義に目覚め絶望ののち希望を見つける。一人は、絶望の中で文明から漏れる音を教えられ、やはり希望を見いだす。それぞれのシーンで同じ曲を個別に踊る二人。『シュリ』で、ラストに朝鮮の北と南から同じ空を見上げる。空は一つに繋がってはいるけれども、同じ光景ではない。だけど、抱くイメージは違っても、たどり着く先は同じではないのか。ハジとキャロルの笑顔があった。愛とは母さんを悲しませないことだ、とは大平数子の原爆詩集『慟哭』にあるが、愛情とは、死んでほしくないと思うことだ。本作は、戦争を止めさせろという主張の最も効果的な二一世紀の金字塔映画だ。チェチェンや、シリアや、そして日本で、銃を持つきみよ。この映画で踊れ! せめてその銃を置いてくれ。生きる目的は、自分以外の人間の幸福度を高めることだろう。人生という儚い時間を検閲と暴力で汚す必要はない。この映画を私は、今後も観るだろうけれども、少なくとも今いる会社で暴力をストップさせることの方が、よりその答えだとここに記す。
 子ども一人助けられないで何が人間だ。子ども一人、大人一人、見殺しにはしない。
(Vシネ批評)







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