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評者◆稲賀繁美
「まれびと」の到来と客人歓待とのあいだ――国際研究集会「比較思想から見た日本仏教」でのエンリコ・フォンガロの論考を出発点に(2)
No.3202 ・ 2015年04月11日




■(承前)無限なるものにたいする責任=応答可能性responsabilite Verantwortlichkeitには、己を無にする「謙遜」が前提となる。パウロに由来するキリスト教神学では、これを kenosisと称する。神が人類を救うために、無限の存在を虚しくして有限の世界に降り立つという自己限定。それが救世主キリストであった。同様に神の声を受けるには、自己放棄が要求される。導師エックハルトを受けて、ドイツ語ではこれをGelassenheitと訳すが、日本では伝統的にそれに禅語の「放下」を充てる。禅の世界では「ほうげ」と読むが、ハイデガーに由来するGelassenheitでは「ほうか」と呼ぶべし、とするのが辻村公一の主張だった。ガダマー弟子筋のジャンニ・バッティモはここから「弱き思惟」を導く。
 歓待はhospitalityだが、それは敵対hostilityと表裏一体である。歓待の主人hostはまた容易に人質hostageとなる。己を空しくして神を歓待するとなれば、それは神への絶対服従を意味する。また客とはドイツ語ではGastだが、これは霊Geistの到来でもある。Gastはghostすなわち幽霊revenantであって、それは式神と同様に再来する。そもそも聖霊heiliger Geistもまた、そうした霊spiritの息吹ruahだった。聖霊hagia pneumaによる憑依こそが神秘体験と呼ばれる現象だろう。
 さらに「他者」は、ひとたび受け入れられれば、もはや以前の「他者」ではなく、迎えた側も、もはやそれ以前の己ではない。歓待以前の「我」の自己同一性はすでに更新されているからだ。歓待はしたがって自己変容の契機であり、改悛は自己喪失の体験と言わねばならない。宗派の異同に拘らず、ここには宗教体験の源泉がある。
 Kenosisすなわち「神の自己空無化」(阿部仲麻呂神父)に即して、東西の思惟の交錯を探る方途が、ここにたまさか遠望されることとなる。不毛なる正統教義論争の彼方にむけて。

*「比較思想から見た日本仏教」(国際日本文化研究センター国際研究集会、2015年2月21日、末木文美士主催)最終討論のため司会者として即興で準備した発言内容を要約した。
――この項終わり







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