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評者◆稲賀繁美
「まれびと」の到来と客人歓待とのあいだ――国際研究集会「比較思想から見た仏教」でのエンリコ・フォンガロの論考を出発点に(1)
No.3201 ・ 2015年04月04日




昨晨掃却旧年煤
今夜練磨新歳〓(食偏に追の旁)
帯根松矣葉加橘
還着新衣待客來

 白隠禅師の『毒語心経』にみえる、新年を迎える詩である。西田幾多郎はこれを引いて「真に我々に直接な世界は流るゝ時の世界、創造的進化の世界である」とベルクソンの『創造的進化』によせた序に記している。この段階の初期西田は「刹那の瞬間」と「純粋持続」、さらには「永遠の現在」といった観念を、まだ十分には掘り下げてはいない。ここに引かれた詩は、「諦義」すなわち表面の意味だけを掬うならば、年末に掃除をして塵を払い、鏡餅に松や橘を添えて飾りつけ、客を待つという情景を即物的に歌ったに過ぎまい。だが「勝義」すなわち深層の意味を拾うならば、そこにはむしろ年ごとに循環反復する円環的な時間が現れてくる。仏教的にいえば輪廻転生をここに読み込むことも許されよう。「主」が到来を待つ「客」とは、年神であり、折口信夫を踏まえるならば、「まれびと」でもある。
 エンリコ・フォンガロはこの「客」の姿に、エマニュエル・レヴィナスの議論を重ねる。一神教の絶対神は、預言者の身近、選ばれし者の傍らに、不意に現れる。出エジプト記ではモーゼに神の声が届く。モーゼは答えて「吾はここに」と応ずる。フランス語訳ではme voiciだが、ヘブライ語で「吾」は主格ではなく、呼格だという(永井普)。答えるモーゼはあくまで神の声の受け皿、器であるに過ぎない。そして受け皿は、いつ神の声を聴くか予知できない受け身の存在である。ちょうどこれと反対の極で釣り合う事態だが、レヴィナスはこうも続ける。問えども答えぬ神の沈黙こそが、神の人類に対する絶対の信頼の証なのだ、と。到来を予期できない受け身のちっぽけな「現存在」と、問いに沈黙もて応ずる大文字の「存在」と。その両者の無限の距離、断絶の交叉に信仰の秘蹟を据える――。それがユダヤ教からキリスト教、さらにイスラームをも包摂する一神教絶対神の伝統だろう。
 はたして神は到来するのか。否、決して到来せぬやも知れぬからこそ、それを畏怖し、準備を怠らぬ覚悟が求められる。超越せるものの恩寵を受け入れるには、ひたすら己を空しくして、自己放棄と虚心とにより、突然の到来に応ずる場を確保せねばならない。デリダ流の駄洒落を逞しくするならば、me voiciのmeこそ、東洋的な「無」でなくてはならぬ。
――つづく







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