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評者◆稲賀繁美
植民地経験と郷愁――日本比較文学会シンポジウム「ナショナリズムと郷愁」より
No.3176 ・ 2014年09月27日




■第二次世界大戦での敗戦により、台湾にいた日本人たちのほとんどは内地へと引き揚げた。これに対して台湾人側からは、日本人には引き揚げうる故郷があるが、台湾人には帰るべき故郷などない、といった別種の郷土喪失感が漏らされたという。林初梅さんの観察である。郷土意識は、共有される体験の記憶を通じて醸成される。だが、政治的な断絶による不可逆的な喪失は、事の正邪を越えてnostalgia=Heimatwehの痛みに強く働きかけもする。
 戻るべき郷土の喪失とは、移民の境涯でもある。島崎藤村は1936年に国際ペンクラブ・ブエノスアイレス大会に参加したが、その途上で故郷喪失経験に接した。乗船したラプラタ丸には、800名をこえる南米移民が同船していたからである。そしてこの航海の前後で「椰子の実」の詩が変貌を遂げる。伊良湖での柳田國男の経験に由来する1901年の藤村の詩は、大中宙二作曲により1936年に「国民歌曲」へと生まれ変わるが、その録音盤は早々に南米にも輸出されていた。
 「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ/故郷の岸を離れて/汝はそも波に幾月」。この詩句は、もはや帰郷の望みも定かならぬ移民船の中で、異なった次元の意味を帯び始めたはずだ。「思いやる八重の汐々/いずれの日にか故国に帰らん」。それは単なる詩的感傷などではなく、移民の直面する現実だったのだから。そしてサンパウロでは37年に岩波菊治によって短歌雑誌『椰子樹』が創刊される。同人誌はポルトガル語圏の異郷のコロニアで開墾生活に勤しむ日系人同胞の心の糧となった。
 1928年に移民としてブラジルに渡り弁護士として活躍した鈴木悌一は、サンパウロ大学に日本研究所を設立した功労者だが、彼は2世の学生子女たちに藤村の「椰子の実」を暗唱させたという。だが現在の4世・5世の日系人子女には、もはやこの歌曲に接した経験がない。集合的記憶がどこまで継承され、どこで途絶されたかは、郷愁計測の目安ともなろう。
 日本による台湾統治、「日治」が、現地では比較的肯定的に評価されるのに対し、韓半島での「日帝支配」は、今日に至るまで否定的に断罪されてきた。だがその類型的対比の根底を探るには、媒介項を増やす必要もあろう。台湾における二・二八事件は日本統治下で育成された人材を半ば根絶するに近い爪痕を残した。これに匹敵するのが済州島における四・三事件だろう。かつての日本側支配者を喪失した現地と、そこに参入した半島軍事政権とのあいだには深刻な不信があり、それが凄惨な殲滅作戦へと発展したからである。さらに台湾と韓半島との経験のあいだに、現在では中国の朝鮮族自治区となっている延辺地域を挿むのも有効だろう。1932年以来の偽「満洲國」の「五族協和」策は、同時代のブラジルなら、バルガス政権による外国語排斥の国粋主義政策などと、世界史的な視野において比較されるに値する。
 とりわけ教育環境の復元が課題となる。「満洲」各地では、小学校から師範学校、さらには建国大学に至るまで、新設された学校ごとに校歌が制定される。それは否応なく同窓生たちの精神的靭帯となり、同胞意識や地域毎の郷土愛を育成した。37年の「日華事変」後の学制改革で、統廃合により消滅した校歌もある。旧「関東洲」地域の校歌にはまだ不在に等しかった「皇国」の文句は、総動員体制後作詞の校歌で定番となる。敗戦後、日帝時代の校歌は一掃される。だが公的な斉唱禁止が逆に、これら禁制の日本語暗唱歌を、郷愁の拠り所、哀惜すべき青春の痛みへと変質させもした。詩人、尹東柱の故地・龍井で高等教育を受けた女学生には、人民中国建国後、北京放送局日本語廣播員に出世した人材もある。
 10代に暗唱した歌謡は記憶からは抹消できない。禁じられた校歌に密かな沈黙の郷愁を抱く最後の世代も、程なくこの地上から消滅する。

*日本比較文学会シンポジウム「ナショナリズムと郷愁(2014年6月14日)席上での即興の発言より。







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