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評者◆谷岡雅樹
戦争と震災・戦後パースペクティブ――山田洋次監督『小さいおうち』
No.3144 ・ 2014年02月01日




■例えば「羨ましい」という言葉は褒め言葉じゃない。仕事もなくブラブラしている人に、「時間があって羨ましい」というふうに使われる。本来なら、東大を出て官僚となって忙しい人こそがその言葉の対象となるべき相手なのだが、そういった人に対しては「羨ましい」と使わない。当たり前すぎるからだ。時間を持て余しているような奴は本来、「お可哀想に」なのだ。「あなたの味方です」と言って近づいてくる者が一番危ない。心中に抱えているであろう相手を見下した態度。その傲慢を相手に気づかれることなく、本心とは裏腹に見せる慇懃無礼。笑顔で迫ってくるその恐怖。
 表現とは、弱者になったつもりの者が、弱者や障害者や疎外される者、異端者に成り代わって、自分こそがマイノリティーだとする力に頼んで代表を気取り嘯く行進曲ではない。
 偽物がその気になって口ずさむ、安い張りぼてのメロディーが人の心を打つはずがない。
 さて映画監督・山田洋次である。彼も羨ましいとは言われない。彼の放つ喜劇は、国民的な熱狂を受けるほどの支持を得ると同時に、一部のインテリゲンチャからは、大衆を馬鹿にしていると批判されてもきた。曰く「上から目線だ」、曰く「可哀想は感動ではない」、曰く、作品の中で大衆を持ちあげておきながら、「この程度のお涙頂戴で、庶民は泣くだろう」と、実は見下している等々だ。そう批判するインテリ自身ももちろん大衆を馬鹿にしている。しかし山田洋次のように大衆を信じたふりをせず、共に闘おうなどという幻想を抱かず、だからこそ気休めの言葉など言わない。「俺には差別の自覚がある」というわけだ。その批判はどこまで当たっているのか。安い涙で騙されたとされる「チョロイ大衆」が、実は騙されたふりをしている強かな者たちであることを発見しつつ、創作活動自体が己の孤独と庶民を発見する道程であり、共闘とは別の満身創痍の山田洋次がそこにはいまいか。国民的映画と言われながら、その合意を取りつける主張からは距離を取って、むしろ大政翼賛的な行動から最も遠いところで仕事をしてきた男ではなかったか。
 本作『小さいおうち』は、二〇〇八年の『母べえ』から数えて六年後の作品だ。描いた時代はどちらも日中戦争が始まって終わるまでの七~八年間で、上映時間は一三二分と一三六分と殆ど変わらず、主人公の女性が年下の男に恋心を抱くも、男は出征してしまう話まで似ている。とても兵役には向かないインテリの男が、徴兵要員として失格だったはずが戦況の悪化ゆえに召集条件が変わって駆り出されてしまう皮肉も同じである。だがこの二作は、さなぎの中の幼虫と脱皮後の成虫ほどに全くイメージの違う一人の作家の姿と言ってよい。
 途中に挟まっていたのは何かというと、東日本大震災であり、その影響下で撮影延期され練り直された『東京家族』だ。それは、一人の作家をさらに奮い立たせるに十分な災害及び作品であった。『母べえ』の画面と登場する人物たちは暗く、日本映画のお約束や伝統や縛りに抗うことなく、これまで見てきたスタイルとあまり変わらぬ戦時下の様子が描かれていた。山田洋次は、日本の映画人の代表でもあり、前衛を走りつつ後衛を守る存在でもあった。その時はまだ牙城にいた。だが本作は、自分より三〇歳以上若い原作者の作品で、等身大の年齢の女優でもって、『東京家族』での自信をそのまま貫く勢いのまま、現状で最高の自らの選択肢たる常連俳優たちを縦横無尽に使って、創造の羽を広げている。タガが外れ、堰を切ったように溢れ出る無駄のない演技の洪水には、演出者と演じる人間の強い意志を感じる。「ドラマに期待される歴史の囚われ人」とは一線を画す、誰も見たことのない、それでいて現実に存在した銃後の日本の市民たちだ。その画面はひたすら明るく、人間たちもまた活き活きと戦争の時代を生きている。
 ドラマの中心は、暗い時代であったはずの戦時下で、恵まれた家庭夫人時子(松たか子)が、夫の部下(吉岡秀隆)と起こす恋愛事件である。そこで奥様を慕っていた女中のタキ(黒木華)が秘密の暴挙に出る。それが死ぬまでタキを苦しめ、また考えさせる。戦争そのものがそうであったように。だがそれこそが、作家の企てた神の一手ではなかったか。
 出征に行くその日、彼のいる下宿に会いに行こうとする時子を制止するタキ。手紙を書くという一考を案じる。家に来るよう勧める内容まで指示をする。その方が「不都合がない」と。時子はもう今さら不倫を夫や世間に知られてもよい。実姉や親友にまで知られ責められてもいる。どんどんとタガが外れていくのは戦争と同じだ。彼女の暴走する恋愛の炎は、国と国との諍いが烈しくなる様に相似し、もう自分の姿が見えない。「下宿ではなく家に来てくれ」という手紙は理屈ではあるが、しかしそれは女中として出過ぎた行為だ。しかもその手紙をタキは渡さない。道ならぬ恋。会わせてはいけない。何が起きるかわからないから。時子を好きで彼に取られたくない。だけど会わせてあげたい。何が起ころうとよいではないか。好きにさせてやりたい。時子を好きだから。その時、最初から渡す気がなかったのか。或いは気が変わったのか。意地悪や嫉妬ではなく、タキのちょっとした知恵と読むこともできる。それは最初に勤めた女中先で暗示されてもいる。妻に知られずに済んだ「手紙を隠した賢い女中」の話だ。それは女中タキの一つの賭けであり冒険だ。身を挺して阻んだ。それでよかったという気持ちと同時に後悔もしている。どっちがよかったのかなんてわからない。とにかく渡すことなく、思いが実ることもなく、時子と男の恋はそこで終わってしまう。後悔は、タキが時子を想っていたからの行為に対してなのか。それほどに熱の入った時子を差し置いて、もしかして自らも男に対して横恋慕していたことに薄々気づきながら封印していたことに対しての罪悪感ではなかったか。今公開中の映画『赤々煉恋』でも、親友から託された彼へのラブレターを渡さない。それが主人公の自殺の動機になっている。だがタキは死なずに生きてきた。時子は爆撃で亡くなり、男もタキも互いのその後を知らずして、生涯独身だった。もう自分を責めるのはやめよう。
 一方の『母べえ』はどうだったか。自虐史観とも言われている。心ある文学者を売国奴と罵り虐殺する官憲を描いて告発し、作者自らは害を被ってそれを批判する安全な側にいる。それでいて加害者当人が不在な映画とも言える。「僕たちにこのような苦しみを強いるのは何者だ」という演説が、ラストシーンで手紙の文言としてナレーションされる。皆「やられ」また「やらされている」人間ばかりが登場する。命令をしている上官の上の最上官や天皇が現れない。ダメな国だったと言いながらそのダメさの中に自分がいない。
 だが『小さいおうち』では、最後にこう言わせている。戦争当時は子供で今は老人となった米倉斉加年が呟くように語る。「日本人誰もが不本意な道だった。強いられている人もいれば、自ら進んでする人もいた。不本意なことすら知らなかった」。そこには加害者の中にいる自分と向き合う作家の闘いの跡がある。そこに生きる人々の中に息づく天皇が画面に出てくる。誰かにやらされているのではなく、自らが「やっていく」戦争の姿。
 『母べえ』での、か弱き吉永小百合による「あなたのような、ぶきっちょで(海で)泳げもしない意気地なしまでもどうして戦争に連れて行くの」という叫びは、これまでのカッコつきの反戦映画の文法通りだったと言える。しかし本作では、家で妻の浮気心にも気づくことのできない夫、正月でも戦争と仕事の話しかできない半ば呑気な暴君が、そのマクロとしての国家の起こす犯罪に対して、同じく批判する。「あんな一番戦争に向かないような男まで駆り出すとは、国も人間の使い方を知らんのか」。滑稽だが作家がそこにいる。
 山口県光市の母子殺害事件で、被害者遺族である本村洋氏は、加害者がどのような反省の言葉を表しても受け入れ難く、自らが殺すと発言した。だがそこで加害者が「結構だ、殺すなら殺せ」と宅間守その他の犯罪者に見られる態度をとったなら、本村洋の無念はもう晴らしようも癒されようもなくなるのではないか。「反日」という言葉がある。何に対して「反」なのか。太平洋戦争を謝罪せず総括せずにいる、或いは不誠実な態度しか示さない今の日本人および日本文化ということなのか。加害者が何をしても許さないという本村さん的な姿勢の諸外国であったとしても、どんな反省を示してもそれでは不足だ、とする近隣諸国であっても、日本人および文化が「殺すなら殺せ」という態度をとることは許されない。問われたことに対して回答しなければならない。あなたたち(昭和二〇年まで生きていた)日本人はなぜ、他国の人間を殺してまでも、天皇や国のために死んでいったのか。従ったのか。その理由なり気持ちとはいったい何だったのか。それは諸外国のみならず、今生きている自国民、作家自身のため、そしてこれから生まれてくる人間にも答える責務があろう。その答えに誠実に向き合おうとしたら一体どういう映画になるだろうか。
 戦争を遂行しようという犯罪人や戦争商売人は別としても、それに乗っかって生きていこうとする人々や騙されたふりをして生きようとする流行やトレンドに対抗していくには、生半可な覚悟でフラフラしていてはいけない。少しの運動気分でストレス解消していては、国や組織の論理には太刀打ちできませんよ。騙されるということは加担するということなのですよ。そして勇ましい言葉より以上の強かさをもっと身につけろ! という強烈なメッセージを政治ではなく作品で叩きつけてきた。それがこの『小さなおうち』である。
 未だ日本に、映画監督というものは存在する、その証明でもある。これを羨ましがらずして何が表現か。伸び伸びとしていて、新人監督のようだ。
(Vシネ批評)







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