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評者◆稲賀繁美
淡水「紅毛城」──支配者交替劇に台湾史の縮図を見る──交易の海賊史観にむけて:文明の海洋史観を超えて? (2)
No.3096 ・ 2013年02月02日




 淡水は台北の北西36キロに位置する。市内からMRT一本で容易に行ける海浜の行楽地。淡水河に面した丘陵の町だが、その北西端の高台に「紅毛城」として知られる城砦が残る。淡水河の河口に近く、対岸の観音山までを一望に臨めるこの高台は、防衛拠点であり、また通商上の要害として着目された。1629年にまずスペイン人によって築城されたサン・ドミンゴ城は、46年にはオランダ人が占領して改修した。フィリピンにまで展開したスペインのフェリペ二世(1527-98)と、文禄・慶長の役=壬申・丁酉倭乱で、朝鮮はおろか明の支配をも企てた豊臣秀吉(1537-98)と。このふたりは正確に同時代人だった。無骨な要塞は、西日両者の海外侵出にあって一触即発を経験した最前線を偲ぶ遺蹟ともいえる。
 その後スペイン勢を駆逐したオランダ独立の前哨、東インド会社の極東の出先が、淡水の紅毛城であり、その先の長崎の平戸さらには出島だった。1662年にそのオランダを駆逐したのが、明の遺臣、鄭成功。彼の事蹟は日本では近松門左衛門の国姓爺合戦によって、民衆の人気を呼んだ。だが台湾島民からみれば、国姓爺の遥かな末裔が、日本統治の後を襲った蒋介石率いる国民党。1946年の228事件は日本統治下で形成された知識人層を一掃するに等しい虐殺事件として記憶に残る。李登輝政権となって戒厳令解除の2年後に公開された、候孝賢監督の『非情城市』(1989)はこの事件を描き、台湾映画の世界的古典となった。
 アヘン戦争で1841年には英国艦隊の砲撃を受けた基隆港とともに、淡水は天津条約により開港地となる。英国が領事館用地を99年契約で租借したのが1863年。清仏戦争下の1884年にはフランス海軍は淡水攻略を企てる。清朝は1889年には、紅毛城からすぐ西北の海岸丘陵に、堅牢な滬尾要塞を設営する。だがこれは結局実戦に役立つことはない。英国は紅毛城が手狭になったため、91年には隣接地にコロニアル様式の英国領事館を設置する。これは日清戦争に続く日本占台時代にも英国領事館として機能した。この地が台湾に返還されたのは、1972年の英国の中華人民共和国承認にともなう台湾との断交に続く1980年のこと。
 淡水はまた洋式基督教育・洋式産業発祥の地でもある。カナダ人宣教師マッケイこと馬偕博士は1882年に牛津学堂を開く。現在の真理大学Aletheia Universityの前身だが、煉瓦造の歴史建築を含む校庭が、紅毛城の背後に広がる。またダグラス・ラプレイクによる得忌利士洋行が施工した港湾施設は、小汽船牽引道が現在も残る。そこから丘をあがった地点に税関の建物があり、2005年には保存改修が完了し「小白亜」の愛称で親しまれている。とりわけ落日が美しく、日没時には花嫁衣装の記念撮影地としてロケ隊が途切れない。ユネスコの世界遺産への潜在的可能性に賭ける歴史保存地区には、台湾の命運が重畳圧縮している。
 このように、淡水の一等地を占める「紅毛城」をめぐる支配者の栄枯盛衰と交替の変転劇を通して、台湾史の縮図が見えてくる。それは大日本帝国を含む外来の支配者に蹂躙され、圧制を余儀なくされた島嶼文化の姿である。「原住民」からみれば海賊行為に等しい外部勢力の争奪戦が、台湾の歴史の節目をなす。淡水は「海盗」史観の定点観測地としても看過できない。
(国際日本文化研究センター研究員・総合研究大学院大学教授)







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