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評者◆稲賀繁美
パンドラの函の底には、まだ「希望」という名の「雑草」が芽吹いている──デンニッツァ・ガブラコヴァ著『雑草の夢――近代日本における「故郷」と「希望」』(本体四〇〇〇円、世織書房)を読む
No.3082 ・ 2012年10月13日




 日本の近代文学を「雑草の夢」として読み解く、という一見、奇想天外な批評が出現した。著者デンニッツァ・ガブラコヴァは、ブルガリアのソフィア大学で日本語に開眼し、夏目漱石の勉強を意図して渡米したオレゴン大学を経由のうえ、日本に留学して7年を過ごした。本書は著者みずからの卓越した日本語による著作だが、東京大学の駒場キャンパスに提出された博士論文が原型となっていることなど、評者は不憫にしてまったく知らなかった。
 著者の力量に瞠目したのは、2011年ソウルで開催された国際比較文学会でのこと。島嶼文学の可能性と島国根性、という意味が裏に透けてみえる英語論題に、これはやられたと思った。だが実際の発表は、期待をさらに上回っていた。島を舞台とする日本の近代小説を自由自在に拾いあつめ、そのあいだに縦横に航路を巡らせて論が進む。
 欧米世界では今なお、あらかじめ出来合いの理論的枠組みによって作品を裁断する、という方法を採らない限り、学術論文とは看做されない。だが現実には、島を巡る旅のなかで、はじめて白紙のうえに徐々に海図が描かれてゆくはずだ。そして多島海や群島は、圧倒的な覇権を握る中心などもたないがゆえに、相互依存の相対的な権力関係に翻弄され、外部勢力の介入を受けつつ、それに執拗に反発する。言い換えればそこには、特定の理論的覇権を無効にする土壌がある。
 島巡りの旅は、同時に既存の欧米型論文作法を打破するという野心と希望をも内に秘めた、大胆な実験だったことが判明する。
 冒頭に近代日本文学と書いたが、それでは正確ではない。序章で扱われるのは、魯迅。かれは壮麗なる「花園」でもなければ「砂漠」でもない「野の草」に「希望」を見出す。この表象あるいは寓意は、魯迅の日本留学体験と無縁ではない。さらにこの魯迅の『野草』に、同時代以降の日本の作家たちも感応した。その群像を名指しすることは、それこそ名も知らぬ「雑草」に個有名を与える、という逆説を冒すことになる。だが、その錯綜した系譜の一隅に大庭みな子の名前を見て、なるほどと合点がゆく。 「浦島草」が、島嶼文学論と雑草論とを束ねる結節点だった。エリオットの「荒地」を敗戦の原体験としつつも、ヴァレリーの詩想よりも「魯迅の野草になれたなら」と希求する被曝女性作家には、『野草の花』と題するエッセイ集が知られる。果たして読者ならば、魯迅と大庭との間に、どのような雑草の繁茂盛衰の生態系を描くだろうか。
 「割り込み」「生い茂る」かと思えば「生き延びる」術に長け、一見不毛な努力の反復に生命を賭ける、名も知られぬ存在。もとより「雑草」を網羅する体系的記述など、形容矛盾となるだろう。「自らの野心の大きさに釣り合わない形」にならざるを得ぬ倒錯。それに自覚的なところにも、本書の射程の程が窺われる。
 「あとがき」に一寸触れているが、本書には含まれない別の英文草稿で、著者は和辻哲郎に目配せする。『風土』(1927‐28年の洋行での体験を基礎に1936年に刊行)で和辻は「欧州には雑草がない」という「おどろくべき発見」(坂部恵)を核に思索を拡げていた。評者はそれを和辻の独創というよりは、当時欧州航路の船旅を体験した知識人の公約数を上手に掬った和辻の如才なさ、と考えていた。ところが、ガブラコヴァはいつのまにか、近代日本人洋行者の記録文学を縦横に踏査して、「雑草欠如」がかれらの観察のひとつの常数であることを、見事に立証してしまった。和辻の『風土』が人気を博した理由の一斑は、こうした漠然とした共通感覚に、粋な哲学的装いという裏打ちを与えたことにあったのだ、と合点がゆく。
 フィレンツェのウフィッチ美術館で、和辻はサンドロ・ボッティチェルリの『春』の絵葉書を購入する。だがそれは全体図ではなく、女神たちの足元の草花を写した部分拡大写真だった。たしかに雑草は皆無。細部への注視は、1925年に画期的なボッティチェルリ研究書を上梓した矢代幸雄の十八番と知られる。
 雑草の欠如から欧州精神史を説くという無謀。この知的系譜と、日本文化の島嶼性とは、どこで交錯するのだろうか。著者のさらなる探求が、極東の列島文化史に思わぬ洞察を開示してくれるのが楽しみである。
(国際日本文化研究センター研究員・総合研究大学院大学教授)







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