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評者◆稲賀繁美
古蘭あり香蘭あり――日本語による『クルアーン』受容とその諸問題
No.3069 ・ 2012年07月07日




 イスラームの聖典『クルアーン』は日本語に6とおり翻訳されている。ハンス=マルティン・クレーマさんは、坂本健一、高橋五郎+有賀阿馬土、大川周明、井筒俊彦、藤本勝次他、三田了一にいたる訳業を詳細に分析した。世界の大宗教の聖典を翻訳する際には、訳語の選択が死命を制する。『妙貞問答』にも顕著なように、南蛮時代以来、仏教用語との融和を図るか、それとも差異を際立たせるかは、布教上の戦略や教義上の論争に直結した。近代でもニーチェ『ツァラツストラ』の仏典訳があり、三島憲一氏は否定的に評価する。だがそれらに比べると『クルアーン』の訳語選択は教義上も、信仰上も副次的ではないか。そもそも神の無時間な貯蔵庫の智慧が、預言者ムハンマドの口から直接アラビア語で歴史時間へと流出したとされる啓示宗教において、翻訳は原典の便宜的読解でしかないからだ。
 むしろ教義上で問題を含むのは、日本人として最初にメッカに巡礼した田中逸平が、アラーの神を日本神話のアメノミナカヌシノカミと同一視したことだろう。これも田中の発案ではなく、平田篤胤がマテオ・リッチ経由でキリスト教教義を学び、神道の体系を一神教にそって整理・合理化した際の「逆本地垂迹」論法を踏襲したものではなかったか。ここには一神教に準じて古事記を再解釈しようとする国学思想の神学的系譜が見えてくる。
 大川周明の大アジア主義は、その延長に位置づけうる。大川から回教研究を依頼されたのが井筒俊彦であり、これが今日に至る本邦イスラーム学の文献学・哲学的本流をなす。サルーマン・ラシュディの『悪魔の詩』の翻訳によって暗殺された五十嵐一もイラン・イスラーム革命の折、最後の日航機で井筒夫妻と一緒にテヘランを脱出していた。
 大川周明は市谷の極東軍事法廷で前列に座った東条英機のはげ頭をポカンと殴って精神鑑定に回されたが、療養中に各国語訳を参照して『古蘭』訳を成し遂げる。預言者ムハンマドと同様の憑依状態に陥ったとも回想するが、そうした神懸りの行文を忠実に翻訳するために、井筒訳では一部極めて砕けた口語表現が実験的に導入された。井筒の東洋哲学は、初期のプロティノス研究から仏教の唯識を含む深層意識にイスラーム神秘主義を統合する。
 大アジア主義の潮流のなかでのイスラーム研究史については、臼杵陽に考察がある。小杉泰、中田考などのアズハル大学留学者から、政教一致を虚構として批判する池内恵まで。東洋意識の思想史的実験の跡付が期待される。晩年の井筒は、編集者の合庭惇に内緒だと断りつつ、大川周明『回教概論』(1942)の(「序」を除く)本文記述は、実は自分の若書きの代筆だったと漏らしたという。井筒初期の『アラビア思想史』(1941)との対照も一興だろう。
 なお、高橋・有賀訳『聖香蘭経』(1939)と李香蘭(芸名1938)とは偶然の一致だろうか。カリガリー大学の楊暁捷の問いだが、山口淑子は後年パレスティナ解放闘争に関与した。 Hans Martin Kramer,“An Other Other? The Qur’an, Islam,and Religous Identity in Modern Japan”
 国際日本文化研究センターEvening Seminar,April5,2012での筆者の発言を要約した。的確で高度な情報を提供されたクレーマ氏にあらためて謝意を表する。







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