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評者◆吉田文憲
「憑く」ものと「憑かれる」もの――その不快さに、不穏さに、深く魅せられる「二度めの夏に至る」(古川日出男、『新潮』)
No.3053 ・ 2012年03月10日
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憑く、という言葉を久しぶりに思い出した。これは、憑き筋の物語だ、と。モノのカタリ。そもそも物語とは、取り憑くもの、モノの霊気の生動する呪術的な空間の中にあるものではなかったか。私はいま古川日出男「二度めの夏に至る」(『新潮』)について語ろうとしている。不穏な物語だ。ときにほとんど不快になる位に。一方で、その不快さに、不穏さに、深く魅せられる。感応せずにはいられない。
ストーリーの要約をかねて、物語の構図を描いてみよう。京都のある巨大な教団の定例の大祭、日祭り、夏至祭に至るまでの組織作り、むしろ語り手でもある主人公の男のプロデュースする教団内部の闇の儀式、より適切にはその中枢に息づく聖なるものたちの祭りに至るまでの「変容」を描いた物語――とでもいえばいえようか。 教団の院主がいる。その娘である二十歳の日輪子、弟の一月輪。そこに直接は血のつながりのない語り手の男が、教団の懐刀のように存在する。男は教団の組織作りのプロデューサーであり、かつ観察者である。彼は院主と性的関係を結んでいる。それは外部からの血の導入、かつ老いた院主の若返りの秘儀のようでもある。同時にそれは彼自身の生い立ちに動機をもつ、母ならぬ太母と交わる禁忌、「僕の前世その前方のデッドエンド」、不可視の「胎内」への遡行の儀式のようでもある。そのことによって男は、日輪子、一月輪と、院主をブラックボックスとした三位一体の聖家族のような関係を夢想する。そのために教団内部で執り行われる秘儀と、そこに蠢く闇の力。ここではそれを「変容」といってもいいのだが、そのうえでこの物語が興味深いのは、その教団内部の「変容」が、あきらかに大震災、原発事故以降の切迫した呼吸、時代の後遺症のなかにあるということだ。日々日輪子を観察している男は思う。「もう五月、……(略)……日輪子の変容は急速だと。その暴力や入神状態の到来の濃化、深化がずっと、ずっと大震災以来、急速だと」。 ここに物語の核心がある。 別の言い方をすれば、この物語では原発事故以降の時代の空気の中で終末論が偽装されているのだ。このとき、「変容」とは、だからその終末論をあおるアリバイ工作のことだといってもいい。それがこの物語を作動させるシステムなのだ。 もう一つ別の構図を描いてみる。物語は日輪子の月の光の下での水行から始まり、あいだに男と院主の性交の秘儀を置き、最後は夏至祭の一月輪の描く曼荼羅の開帳で終わる。ここにも物語の見事な三位一体の構成がある。一方、この構成は私に、折口信夫の『死者の書』を連想させる。むしろ反転された『死者の書』だろうか。さらにより直接的には大嘗祭の秘儀を連想させる。周知のように大嘗祭は、魂の容れ物を交替させながら天皇なるものの永続を図る闇の儀式であり、装置である。その霊魂再生の秘儀の装置が、大震災以後、それを物語の巧みなアリバイにして、作動した。 すなわちこの不穏な力は大震災以後の時代の空気によってもたらされたものだということだ。 辻井喬「雪の夜ばなし」(『文學界』)。しんしんと降る雪には人に過去を想起させる力、あるいはなにかしら鎮魂の力があるのだろうか。 終戦直後の樺太で、日ソ中立条約を破ったソ連軍侵攻の中、大泊の九名の電話交換手、真岡の電話局では七名の少女たちが殉死した。史実としてそういう二つの事件があった。それは当時「純潔の少女たち、涙の殉死」として新聞で報道されたりもした。 この物語は、その真岡での事件のたった一人の生き残りの女性の問わず語りとして書かれている。現在稚内には、大泊純潔少女の碑と並んで、真岡純潔少女の碑があるという。そこにはそのとき殉死したはずのその女性の名前も刻まれている。つまり一人だけ生き残ったものがいたのだ。だがそれは、この皇国の美談を汚す口外できない禁忌なのだ。それを明かすことは、世間からは裏切りとも見られかねない。女性は以後名前を変え、その死んでいった仲間たちへの負い目を抱え、戦後六十年余その口外できない禁忌の中で生きてきた。これをたとえば現在の私たちは、国家の大義・欲望と盲目的な共犯関係を結ばされた皇国少女の悲劇だというかもしれない。だがそう語っただけではなにも語ったことにはならない。ここにはその悲劇を生きた、いまは「八十を越した」老女の生身の声がある。その生の声がここでは作者に取り憑いた。その老女の遺言にも似た語りこそが禁忌の中に封じ込められた語られざる歴史への証言であり、国家犯罪へのささやかな告発である。作者にはそういう思いが動いているのだろう。 又吉栄喜「歌う人」(『すばる』)。母の遺骨を持って、五十三年ぶりに、かつては流罪人の島だった沖縄本島からは離れた故郷浮盛島へ帰ってくる老人の話。だが男は何日経っても遺骨を墓へ納めようとせず、島民たちともほとんど口をきかない。そのうち彼は白木の箱を持って狭い島内のあちらこちらに出没し、三百年前王府から島の統治を任された江州家の栄華を歌った島の民謡江州節を歌って歩くようになる。島民たちはこの突然の訪問者、元島民の無気味な歌う男をどう扱っていいのかわからない。これは、その騒動記といってもいい。 面白いのは、この作品では、歌う老人の内面が徹底して空白化されていて、最後まで何を考えているかわからないことだ。そしてこの空白を歌が埋める。むしろここではその埋めることのできないものが老人の身体を通して、流人の島の歴史として歌となって奔っているといった方がいいだろうか。 歌もまたオルギーであり、取り憑くものだ。ここでは江州節が死者を通して、帰郷した老人の身体の語られざる内部に取り憑いたのだ。 馳平啓樹「春寒」(『文學界』)に好感を持った。これは、顔面麻痺を患い現在はリハビリ中、弁当屋でバイトをしながら、ときどき青春18きっぷを使って鉄道マニアの仲間とローカル線を乗り継ぐ旅に出る若者の話。彼の顔の右半分と左半分では表情が違う。ときどき窓ガラスに向かって口をムンクの叫びのかたちにしてみる。顔面麻痺は、この若者の人間関係や社会への不適応性、語り難い心の中や、その生き難さを語るものだろう。余った弁当を公園の猫に食べさせる場面や廃線寸前の芸備線の車体の振動に身を委ね、その音に耳を澄まして安らぐ場面が印象的だ。ここにこの小説のささやかなカタルシスと解放感があるのだろう。すべてが劇的な古川作品とは、およそ対極にある作品だ。 (詩人) |
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