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評者◆谷岡雅樹
職業噺家。住所高座――康宇政監督『小三治』
小三治
康宇政監督
No.2907 ・ 2009年02月28日




 プロ野球選手を引退した桑田真澄が四月から早稲田の大学院に通う予定だという。その理由について語っていた。僕は技術と経験なら誰にも負けない。しかしそれを人に伝える理論がない。だからそれを学ぶために行く、と。話を聞いていて思った。今、世の中にあるのはむしろ伝える方法論、マニュアルばかりじゃないか。あるべき技術と経験のほう、つまり人間・桑田真澄という生身の実体、これが確実に消えつつある。ただ事ではないな。
 少し前に倉本聰脚本『拝啓父上様』という料亭が舞台のドラマがあった。そこで新米の板前が、「絶対に汚れが落ちない鉄鍋」を無理やりに磨かせられる軽いいじめ(もしくは修行、通過儀礼)があった。だがそのシーンを見ていて、ただ「意味がない」とは思わなかった。それをやらなきゃ到達できない世界観を私もまた経験的に知っている。つまり、その汚れは、スーパーマンや化け物がこすれば落ちるかもしれない。その可能性を否定してしまったら、残るのはマニュアルだけで、人間という存在がないがしろにされていく。
 根性や気合いじゃなくて論理だ、というが、時にそれは屁理屈となり、疑問を持ち不満を語ることに意義を見出してしまう。疑問はあるさ。不満だらけだ。殺人犯にだって言い分はあり何にだって一面の真理はある。だが論理をやり過ごさないと生きていけない世界がある。下請けの零細企業とか、しがない物書きでなくとも「仕事」というものは本来はそういうものだ。大命題の前で理屈をこねている暇がない現場のことだ。人生は有限だ。スポーツや軍隊、服役などにおいては理不尽に現れたりもするが、マニュアルを超える人間そのものを作るのは、しごきのようなものだ。お茶の入れ方、履物の揃え方、そんなものには師匠の好み以外に大した理屈はない。疑問を持たずにやるのではなく、疑問を持ちながらもしかし精神的にというよりも肉体的に噛み締めていくもの。それは存在する。
 さて『小三治』である。この原稿を書き始めるのに随分と躊躇した。というのも、落語を知らないからである。こういう書き方は少々の謙遜を含むものが多いのだが、私の場合は、全くそのままである。何も知らない。なぜ興味を示さずに生きてきたのかを逆に問いたいほど恨みがましい気持もあって、つまりは無知の理由ぐらいを考えることならできる。以下書く文章は、その程度の内容である。落語家柳家小三治のドキュメント映画であり、凄いという伝え方に、一夜漬けで身につけたような半端な知識で調子に乗った書き方をしたくはない。その恥ずかしさと愚かしさぐらいはなんとか分かっているとも伝えたい。その上で無知でもなお面白かった。それをどう書こうか苦慮しているわけである。誤解と無理解も含めて馬鹿にしていることになるという畏れは持っている。この記事が出る頃にはTBSで放送なのだが、元女子プロ野球で大阪ダイヤモンドの中心選手だった高坂峰子さんがドキュメンタリーで特集される。初めての取材以来私は彼女と交流が続いている。収録のために上京したので会ってきた。そこで、東京はいつ以来なのかを尋ねた。そうしたら、古今亭志ん朝師匠の一周忌以来だという。ああ、そうだ。親しく付き合っていたという話を何度も聞いていた。映画を観て、小学館のCDマガジン「落語・昭和の名人」を買う。第一巻が志ん朝だった。驚いた。何だ、そんな(落語界の)大物だったのか。ならばそんな私が一体、映画の何に吸い寄せられ、また目覚めさせられたのであろう。
 人間に、である。立川談志のようにメディアに登場する落語家はなんとなく知っている。社交的で人の反発を買いつつ取り込んでいくというスタイル。多くはそんなものだろうと思っていた。人柄はともかくも芸で見せる、つまりは話の面白さが主なんだろうなあ、と。ところがこの映画の小三治を見て吃驚した。話が分かろうが少々言葉を知らなかろうが、内容の把握を超えて、まずその話す人間自体に惹き付けられた。間合いや佇まい、そこにいるだけの存在を楽しむ。これは一体なんだ。そうなのだ、人間なのだ。
 日本には元々、浄瑠璃のほかに、講談、浪曲、芝居の声色など、話芸というものが存在していた。落語もその一つである。テキヤの啖呵バイや見世物の口上、野球選手を紹介するアナウンスもまたそうだ。かつて独自の文化として一大番付を形成していたのは弁士で、一九三三年に弁士番付の横綱に君臨していた(のち漫談家の)徳川夢声は「話術は黙ることである」と言っている。小三治の間合いの緊張に、私はまさにその真髄を見た気がした。
 辛くて意味のないような修行が既にあって、それをどう噛み締めてきたのか。その結果としての人物がそこにいる。間という時間を空間的に触れて感動するとは考えたこともなかった。観てもらいたい理由はそこにある。落語とは、江戸情緒が好きだとか古典の味に触れる愉しみを分かった者の(寄席の存在する都市の)特権的な趣味だとばかり思って私は生きてきた。小三治という偉人の凄さや名人芸を体感するならば、既に予想できた。ところが、地道な当たり前のことをやる日常の果ての「間」に深奥が隠されている、という仕事の内実をこの映画で初めて知った。破天荒なサービスを必要以上に感じているのであろう小三治は自身を「芸人に向いてない」と語る。私は芸人よりも真面目な努力の職業人を見たいと思ってきた。舞台を降りているときの無精髭の小三治には高座同様のオーラがあり、これは誰にでもできるものではないというより、誰にでもできるはずだ、と思わせる凄さがあった。NHK『仕事の流儀』で紹介されたのも、当初は師匠の柳家小さんに「お前の噺は面白くねえな」と言われるその無芸なタイプの凄さにスポットを当てたいゆえであろう。映画はさらにその日常の平凡という非凡さを切り取っていく。兄弟子にあたる入船亭扇橋との惚けた掛け合いは、逆に修行時代の豊かさを感じ取ることが出来る。
 「面白くねえな」といった小さんは弟子にいっさい稽古をつけなかった。扇橋がよく稽古をつけてもらったのは、師匠よりも文楽や圓生だったようだが、小三治もまた、弟子に芸を盗めという。と同時に、被写体になっている俺の真実を盗んでみろよ、とカメラ(監督)に向かって静かな佇まいを見せつつ対峙している。人間と人間がぶつかり合っている。

 武蔵拳という俳優はかつてすし職人であった。彼は語った。シャリ(ご飯の部分)は本来一発で適量をカッと掴まなければいけない。だから捨てジャリは美しくない。足したり捨てたりってのはプロじゃない。それで上手い人のにぎりをロウで固めて、常に毎日ポケットに入れて、手で形と大きさを確認していた、と。映画でも小三治の妙なクセが登場する。それは柳家一門全員のクセらしい。私は必死にロウを握り持つ武蔵拳を思い出した。
 先日「職業“詐欺”」というNHKスペシャルが放送された。振り込め詐欺という犯罪を悪びれずに職業と語る若者たち。世の中が資本家と労働者しか存在せず、どうやって金を分捕るかの考え方なら、株で儲けようが仕組みや詐欺でいただこうが捕まらなければ「お仕事」に替わりはないのだろう。企業は個人の多様な能力を発揮させるといいながら、エネルギーを奪い取る場にしかならず、奪い取られる側は結局は、必死の抵抗としてせいぜいが金額に換算して「いただく」という方向にしか向かっていかなかった。「食わせろ」とか「働かせろ」という運動。自ら働き自ら食うという発想をも忘れ去るように出来ている。忘れて「食わせろ」という叫びにしかなっていないその現状は、本来あった初期の欲求が、腐臭を放ち、悲鳴を上げているものだ。初期の欲求とは何か。理屈はともかく誠意を持ってやるという、ただそれだけのことだ。その悦び以上に生きる意味は、そう多くも深いものもない。その仕事とはビジネスのことではない。人間の営みである。マニュアルを読むのではなしに、人間(師匠や親方)を見て覚え、盗むものだ。だからマニュアルで稼ぐという一点だけなら、殺された東電OLのように殺伐とした結果しかない。つまり、昼の総合職も夜のバイトも期待度に従い感情よりも勘定という点で等価なのだ。人間臭くなる職業ほど案外稼げないものだ。だがそこにこそ意味がある。映画『小三治』は久々にその職業のダイナミズムを伝えてくれた。それは、小三治という人(や落語について)を知っている人はもちろん、知らずに見るということの意味をも含めてである。
 ここのところ私は、“普通の人”の普通の人生を撮ったドキュメンタリー映画を面白く見ている。普通の人の変わった人生(出来事、事件)や有名人の日常などは、それだけで、見る方向性が決まっていて、撮る(見せる)側もその約束事に縛られている。そのルールに則ってキャッチボールするようなもので、規格外もなければ破綻も少ない。それらは、見て、日々の糧に、或いは明日の希望にどの程度つながるものなのか。あまり参考にはならない。むしろ教訓めいたものを楽しむという感触だけに過ぎない。つまりこちらが勝手に物語化して、解釈して終わる。小三治もまた知った者にとっては偉大な教訓である。ゆえに知らない私にとっては、むしろ普通の人の普通の人生であったのだ。特にラストに演った「鰍沢」は、志ん朝知らずの私をも自然に引き込む力があった。この時六十八歳の小三治にとってなお格闘と挑戦に値するネタである。巧く演じようとか味を出そうとか、そんな見てくれの芸ではない。ただ今このとき納得の行く仕事を目指す男の(先達から)盗んだ生き様がそこにあるだけだ。趣味は俳句で酒は飲まない。質素で地味にしかし人生を享楽している落語のひたむきな継承者。詐欺を職業と血迷うような若者にこそ見て欲しい。これが仕事だ。人間だ。堅気とは違う。生身の身体が無形の文化を獲得していく。生きるということの面白さでもある。それは誰にだって出来る。(Vシネ批評)







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