No.2766

No.2768

『翻訳教室』柴田元幸著

新書館刊

2006.4.1日

2768号

評者金子靖

翻訳こそ最高の英語学習

 本書『翻訳教室』は、柴田元幸が二〇〇四年十月から二〇〇五年一月にかけて東大文学部で行なった授業「西洋近代語学近代文学演習第1部 翻訳演習」の内容を、ほぼそのまま文字化したものである。
 一連の翻訳講義において、まず柴田は、「英語を正確に読むことの大切さ」を学生たちに伝えようとする。かつて柴田は渡辺利雄や島田太郎にその大切さを叩き込まれたわけであるが、今度は自分の学生たちの頭にそれをしっかり叩き込もうとしているのだろう。柴田元幸は、英語の基本的な構造や、表現一つひとつの根幹を成す原則的意味、そして英語と日本語の違いなどについて、明快な用例を交えつつ、非常にわかりやすく説明する。
 「日本語には『ふらふら』とか『ぎゃーぎゃー』とかの擬態語や擬音語、オノマトペが多くて、英語は少ないとよく言われますよね。でもある意味ではそうだけど、ある意味ではそうじゃない。そうじゃないというのは英語の場合には、特に動詞の中に、擬態・擬音的な要素が入っているんだよ。このgrasshoppers whirredでいえばwhirrっていう動詞がそう。何かこう、『ブーン』とうなっている感じが出るわけね。だからこれを単純に『うなりながら飛ぶ』とか訳すより、『ブンブン音を立てて飛んだ』とかいうふうに、音の感じを出したいですね」(三十五頁)。
 「英文科の人は絶対知っておいてほしいですけど、desperateという言葉は『絶望』じゃない。despairは『絶望』だけど、desperateは『やけくそ』という日本語が一番近いです。あるいは『自暴自棄』でも『必死』とかでもいいんだけど、要するに諦めてないの。というか諦めが悪い感じ。たとえば強盗かなんかが立てこもっていて、“They are desperate. They can do anything.”『あいつらもうやけっぱちだから何をするかわからない』とかね」(七十一頁)。(このdespairとdesperateの違いは、二九〇頁でもう一度説明している。)
 「まず、一般論で言えば、stareは(『見つめる』と『睨みつける』)どっちでもありえますね。stareという言葉は、前回も言ったとおり、同じ『見る』にしても、何らかの理由でその視線が動かない感じ。怒っているかもしれないし、魅入られているかもしれないし、呆れているかもしれない。見渡したりするときにはstareとは言わない。(八十九頁)。
 「doomという言葉は、fateやdestinyと同じで『運命』と訳されますが、ニュアンスはそれぞれ違っていて、destiny, fate, doom…あとになるほど暗くなる感じ。だからdoomは『運命』と訳さず『破滅』と訳した方がいい場合もあります」(二六九頁)。
 「……(英語では)情景の中心が示されて、あとから細部がだんだん出てくる、それが普通です」(三一六頁)。
 柴田は、どの課題においても、こうした英語の知識を学生たちに明確に説明する。英語教師だからそれができて当たり前だと思われるかもしれないが、英語教師だからこそわかるだろうが、今紹介したような英語の知識を明確に説明するのはネイティヴスピーカーでもなかなかむずかしいことなのだ。翻訳を通じて英語と日本語のあいだを常にさまよいながら、両者に対する理解をますます深めている翻訳者・柴田元幸だからこそ、このように英語について非常にわかりやすく説明できるのだ。
 例えば中村保男の『新編 英和翻訳表現辞典』(研究社)や『翻訳の秘訣 理論と実践』(新潮選書)がそうだが、一流の翻訳者による翻訳指南書は解説が簡潔明快で、英語を読む上ではもちろんのこと、英会話や英作文で実際に役立つことがたくさん書かれている。今は会話中心の英語教育が盛んだが、本書の柴田元幸による英語の解説に耳を傾けていると、実は翻訳こそが最高の英語学習かもしれない、と多くの英語学習者は感じることだろう。
 そして訳文の討議が始まると、柴田元幸とその学生たちは、傍(はた)から見るとどうでもいいことに徹底的にこだわり、熱い議論を延々繰り広げる。
 「それに、漢字が六文字も続くのは多すぎるね、『無理矢理部屋』って。四文字を超えて漢字が続くとちょっと見づらい」(一三一頁)。
 「『雨の中外へ連れ出した』と、『中』『外』が漢字で並ぶのがカッコ悪い」(二三〇頁)。
 「『家族のために家に持って帰る』」という言い方は、ややトートロジカルな感じがするね。……『家族のために家に』という、『に』の繰り返しが重複感を生んじゃってる」(三二三頁)。
 このあたりは翻訳に興味のない者にとっては、ほとんどどうでもいいことだろう。しかし、彼らにとっては、決してどうでもよいことではないのだ。だから彼らは本書のなかで英語の読み方や日本語表現についてキリなく論じつづける。“Are you crazy?”の表現だけでも、「気が狂っているの?」がいいだろうか、それとも「頭おかしいんじゃないの?」がいいだろうか、あるいは「何バカなこと言ってんだよ」ぐらいじゃないだろうかと、いつまでも議論しているのだ(九十七頁―九十八頁)。その様子を眺めながら、この人たちはそんなことで一日議論しているつもりだろうか、と心配しつつも、「いや、それは『あんた、バカじゃないの?』じゃないか」といつの間にかその議論に加わってしまう読者もいることだろう。
 しかし、柴田と学生たちは「相手の訳に難癖をつけている」わけでも、「自分の訳が相手の訳よりも正しいことを証明したい」わけでもない。この『翻訳教室』には、そういったある種の不健全さがまるで感じられない。
 原文のニュアンスをいちばんよく伝える日本語は何だろうか? ネイティヴスピーカーが原文を読んだときに感じる思いを、自分たちはなんとか日本語で再現できないだろうか?
  柴田も学生たちも、この一つのことだけを真剣に考えている。それを翻訳教室で実現するために、教師も学生も同じ方向を向いて、同じ方向に突き進んでいる。誰もが同じ目的意識を持っているから、相手の訳文の悪い部分があれば訂正はするものの、いいところは自然と受け入れることができる。
 そして柴田元幸という教師は、学生の誤訳や不自然な日本語表現をけなすようなことは絶対にしない。それどころか、「うん、それはアリだな」「これはこれでひとつのやり方です」「ただ、この訳はいいんだよな。ひとつの可能性ではある」というように、それぞれのいいところを積極的に評価しようとする。悪いところを叩かれるのではなく、いいところをほめてもらえるのだから、積極的に発言できる学生はもちろんのこと、それが苦手な学生も、この英語教師にしっかり自分の考えを伝えたい、と思うに違いない。どうやら柴田元幸という教師は、ガンガン発言できる学生をさらに伸ばすことよりも、発言できない学生が何らかの形で発言できるように持っていくことが得意なようだ。
 『翻訳教室』には、多くの読者がいちばん知りたいと思われる柴田元幸の翻訳に対する考え方も随所にあらわれている。
 「翻訳において、語順についての大原則は、なるべく原文の語順どおり訳すということです。まあたぶんこれは今後何度も言うことになると思うけど」(二十四頁)。
 「英語で普通の言い方なんだったら、それを訳すときも普通の日本語にすべきだけど、英語もちょっと変わった英語なんだったら、変わってる感じは残したい」(二十七頁)。
 「翻訳の入門書なんかを読むと、過去形が『〜た』『〜した』が続くと日本語として美しくないから、適宜現在形を挟みましょうみたいなことが書いてあったりする。でも機械的にそうするのは小説を読むってことを無視しているとしか言いようがなくて、現在形を挟むのがふさわしい文章とふさわしくない文章があるんだよね」(九十三―九十四頁)。
 「そのあたりは、あちらを立てるとこちらが立たずで、翻訳に限らず世の中そういうものだよね(笑)。原則はあるけれども、あとはその場その場で判断していくしかない」(九十四頁)。
 「そういう、自分でも意味のわからない言葉を、辞書に載ってるからって引き写すのは避けたいね」(二九五頁)。
 「翻訳というのは自分の哲学や趣味を主張する場じゃないからね」(三二一頁)。
 翻訳について話し合うことは、翻訳をする者たちにとっては、とても楽しいことなのだろう。
 「ここに来ているみなさんも、翻訳教室だから翻訳にすごく興味を持ってると思うんだけど、翻訳のいいところはやっている間は『逃げちゃえる』ということ。こんな楽しいことはないですよ。(……)僕なんかはね、朝の四時に起きるんですよ。四時に起きてアンプのスイッチを入れてCDだかアナログレコードだかにのせて音楽を小さい音で聴きながら翻訳するんですけれども、それがもう至福の時なんですよね」(一七一頁)。
 村上春樹も、柴田元幸たちの「翻訳教室」に参加して、翻訳という作業への思いを、こんなに熱く語っている。
 柴田元幸は、駒場では佐藤良明らとともに、「英語の宇宙」(The Universe of English)を作り上げた。今度は本郷で、前山佳朱彦をはじめとするTAたち、そして「翻訳教室」に参加した/している学生たちとともに、「翻訳の宇宙」(The Universe of Translation)を作り上げた/ているのかもしれない。
 柴田元幸の東大での講義を見事にまとめた編集者・松下昌弘に脱帽。しかし、英語専門出版社に勤務する者としては、英語専門出版社でない版元の編集者にこんなすばらしい英語の本を作られてしまって、大変悔しい。(研究社編集部)

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